最近、何かと『多様性』が叫ばれている。
他者のあり方、出自、考え、嗜好。
それは千差万別であり、人間は一人一人違う。世の中には様々な人間がいて、多様な生き方をしている。
それらは否定してはいけないし、できない。
それを否定したり、阻害する人間は皆、差別主義者であり、愚か者(トランプ?)である。
恥ずべき存在であり、忌避すべき人間である。
本当にそうだろうか?
何度も書いているが、人間は自由である。
何をしようと、考えようと、話そうと、興味を持とうと、好きになろうと、"勝手"だ。自由だ。
それを害するものは全て、"悪"であり、愚かな存在でしかない。
…本当か?
本当に人間は自由か? 自由でいて良いのか?
他人の勝手を認めているのか?
そう思える体験が過去に幾つかある。
俺が大学卒業後に就職した会社は、今で言うのならば、"ブラック企業"(…当時はそんな言葉は無かったなぁ(>_<)⤵)であり、パワハラや時間外労働、名ばかり管理職のオンパレードだったが、その中でも今でも思い出に残っている人間が何人かいる。
それは、"ナイナイ河本(仮名)"君である。
彼は俺のいた店舗に来た新人バイトであった。
仕事を覚えさせるため、ベテランバイトの瀬戸君(仮名)の下に付けた。
"バイト研修"というやつだ。
河本君と瀬戸君は同世代ということもあり仲が良くなり、河本君は瀬戸君の指導を素直に聞いているようだった。
だが、1ヶ月後、河本君の瀬戸君に対する態度がよそよそしくなっていることに気が付いた。
(…何かあったな?)
店長(代理)として、その事に気付いた俺は、河本君が昼休憩をとっている時を見計らい、探りを入れた。
すると、思いもよらない事を聞かされた。
俺「…河本君、最近、瀬戸君と何かあった?」
河「いや、別に何もないっす…」
俺「いやいや、前は仲良く話、していたじゃん? 何かあった?」
河「…まぁ、何かってほどでも無いんですけど…。…瀬戸さん、唐揚げにマヨネーズ掛けるんすよ」
俺「は?」
二人は学生であったが、二人とも土日のシフトに午前中から入っていて、たまに同時に昼休憩を取っていた。
近くにスーパーがあり、そこで弁当などを買うのが、そこの店舗の定番"昼食"であった。
ちなみに、俺もたまには唐揚げにマヨネーズをつける。
俺「…俺もつけるよ? 河本君は嫌いなの?」
河「いえ。俺もたまには付けますよ」
俺「…はぁ? じゃ、なんで?」
次の河本君の言葉が今でも分からない。
河「だってね。瀬戸さん、マヨネーズを"自信満々"に掛けるんすよ。…なんでっすかね」
こっちが『なんで?』である。
そもそも『自信満々に唐揚げにマヨネーズを掛ける』とは何なのか?
唐揚げに何を付けようと、それは食べる人間の自由だ。
マヨネーズだろうが、塩だろうが、掛け無しであろうが好きにしたら良い。
だが、河本君が言うには「瀬戸君はまるで"唐揚げにはマヨネーズしかない"という顔で掛けるんすよ」と言い、それが頭に来るらしい。
…何故かわからない。
別に瀬戸君からマヨネーズを強要された訳でもないみたいだった。
ただ、瀬戸君が唐揚げにマヨネーズを掛けるのが、無性に頭に来るらしい。
また、瀬戸君はそのスーパーの唐揚げ弁当が気に入っているらしく、昼食は必ず唐揚げ弁当を購入して、マヨネーズを掛けるらしい。
それで瀬戸君を嫌いになった、というのだ。
これは本当の話である。
本当に河本君は瀬戸君に腹を立てていた。
俺「そんなの他人の勝手だろ? 怒ってどうすんの?」
そう言った俺に対して、河本君が返した言葉が今でも覚えている。
河「そうなんすよ! そんなの"他人の勝手"でしょ? だから『止めてください』って言えないんすよ。…だから関わらない方が良いかな、と。そうすれば、自信満々で唐揚げにマヨネーズ掛けるを見なくて済むんで…」
河本君は"他人の勝手"をどうしても許せない質の人間らしかった。
この答えに俺は唖然とした。
唐揚げにマヨネーズを掛ける、掛けないでそこまでするのか?
その人間を忌避するほどのことか?
そして、思ったのが、
(コイツ、面白いな…)
という印象だった。
馬鹿馬鹿しい理由で他人を排除しているが、それを堂々と俺に言い、しかも「他人の勝手が許せない」と臆面もなく言ってしまう男、河本。
おかしな奴だが、この感性が面白く感じた。
その後、この河本君がバイトに入っている時によく話しかけるようになり、他に何か気に入らない物事を聞いた。
河本君は他にも様々なものに怒りを抱いていた。
元雑誌モデルの女優。
※理由…キレイなだけで大して演技力がない。だが、自分はなれない。
貧困問題を語るテレビコメテーター。
※理由…貧困問題を語るほど貧困していない。自分でも言えるが、あーなるには自分も貧困から抜け出している。だからできない。
女性のミュール(サンダルみたいな奴)
※理由…カチカチうるさいが、人が何を履こうが勝手だ。だから許せない。
わがままと偏見の固まりだったが、その中でも衝撃だったのが、
『車のヘッドライト』だ。
河本君によれば、車のヘッドライトには明らかにこちらを睨み付けているものがある。
何で見ず知らずの車に睨まれないといけないのか?
そして、何であんな"ムカつく"車をメーカーは作るのか?
「俺にはさっぱりわかりませんよ」
…それはこっちの言葉だ。
確かに車の正面フォルムには、(変なの…)と思えるものがある。
だが、それはまた"勝手"であるし、"そういう車がある"というだけだ。
怒りを抱いた事がない。
だが、河本君は"睨み付けてくる車"が自身の近くを通る度に頭に来るらしい。
河本のそんな"拘り(?)"を俺は「ナイナイ」(=あるあるの逆)として面白く見ていた。
それらは全てが異様で、『他人の勝手』で片付けられる話であった。
そういう俺も、許せない"他人の勝手"があった。
当時、女性ファッション雑誌がやたらと出版されていた。
その特集でよく、『〇〇ちゃんの春物コーデ、全部見せ!』などというものがあり、その雑誌の表紙に赤字でデカデカと書かれていたりした。
何で、お前の着る服を見なけりゃならんのだ!
…と、俺は思えてしまう。
コンビニ何かでそんな表紙を見ると、
(それじゃ、下着も全部見せろや!《=最低》)
と言いたくなる。
…唐揚げにマヨネーズを自信満々に掛けようが、
元モデルが女優になろうが、
コメテーターが貧困問題を語ろうが、
女性がミュールを履こうが、
車のヘッドライトが睨み付けてこようが、
そして、女性ファッション雑誌でモデルが洋服の全部見せようが、
全て自由である。
それで、誰かが傷付いたり、損をしたり、財産を失わない限り、自由だ。
好きにしたら良い。
他人が頭に来ようが、不快に感じようが、大多数の人間が『良いよ』と言えば、問題ない。
たまに、
「俺、プロレスが好きなんだ」というと、非難されることがある。
「あんなの八百長だろ?」
「何が楽しいの?」
「低俗だ」
「あんなの見る意味ないよ」
確かにプロレスは八百長かもしれない。
勝敗は、戦う前から分かっていて、レスラーは二人(ないし、複数人で)、怪我の内容に"演技"し、観客の興奮を煽っている。
『低俗だ』と言えば、そうかもしれない。
だからと言って『見る意味がない』かどうか、楽しいかどうかは、人の"勝手"だ。
繰り返し書くが、人が何をしようと、何に興味を持とうと、何を好きになろうと、自由だ。
誰の許可がいるのか?
「そんなの俺の勝手だろ?」と言われたら、それまでである。
前田日明が誰を信じようと、裏切られようと、
長州力が狭量な器質な人間であろうと、
UWFが実はプロレスであろうと、
おばさんの仕事が遅くても、
話した事がない若い女性が怖くても、
藤原喜明が多くのレスラーを指導していようと、
それは自由だ。好きにすれば良い。
誰にも止められない。
河本君が言うように、嫌なら関わらなければよいだけだ。
たか、人は関わる。
他者が如何なる人間であろうと、関わらざるを得ない時がある。
人間はそれぞれ違う。
違う考え、違う感じ方、違う方法、違う感想を持つ。
生まれた場所、育ち方、見方…。
それは千差万別だ。多様だ。
それを否定する事はできない。他者を否定する事は、また"違う"自身を否定する事である。
『あの人はおかしい』のであるなら、また『アンタもおかしい』のである。
多様とは『自由である』という事であり、『おかしいさ』であるが、それが『特徴』とか、『個性』である。
自身の多様性は認めて欲しいが、自身以外の他人の多様性は絶対に認めたくない。
そんなバカは社会では生きていけないだろう。
そんな"わがまま"は許されない。
『何をしようと、自由』だが、そのわがままは出来ない。
(どこかの国では、罷り通っているようだが…)
ならば、"他人の勝手"が許せない我々はどうしたら良いのか?
多様な個性に腹が立ったらどうすれば良いのか?
それには、2つしかないと思う。
一つは他人の"勝手"を規制するしかない。
会社などの組織を思い出して欲しい。
会社にいる人間に"勝手"は許されない。
会社の為に動き、会社に利益をもたらす事を一番に考えいる。
自身の勝手のみを主張する人間は組織にはいられない。
その自由を規制される代わりに、金銭を得ることが出来る。
だから、人は会社などに加入する。
それは自分の"自由・個性"を切り売りして、生きる為の金銭を得ている、と言えなくもない。
もう1つは、他人の勝手にひたすら寛容になることだ。
全ての個性を認めるのだ。
自分の思っていた人物像、性格、印象、真実、全てを"可"とする。
そうすれば、何も苛立つ事はない。
他人は、勝手に動き、喋り、考える。
好きにしたら良い。
前者のみなら、人間には自由がなくなる。誰かの意思により、あらゆる事を否定される。画一的で平面的な人間しかいなくなる。
後者であるなら、今度は自我が無い。
『何でも良いよ』などと言えば、統制がとれない。
会社であるなら、最大の目的である利益を無視して良いという話になる。
また、上司も後輩も社長も無くなる。
だって、誰かに礼儀正しくしようと、しまいと自由だからだ。
そんな会社があるはずないし、それを良しとする奇特な人間はいない。
アンタも嫌だろ?
部下から「おい! 〇〇!」なんて呼ばれる会社…。
『全て、皆の自由。だから勝手にしなさい』
こんな"キリスト"みたいな人間はまずいない。
ならば、"バランス"を考えるしかない。
必要に応じて規制し、寛容していくしかない。
そのバランスもまた多様だ。
「俺は誰にでも寛容だ」なんて思っていても、端から見たら、「あの人、すぐに他人を縛る」なんて思われているかも。
だから覚悟して、覚えておくべきだ。
人は本来は自由だ。
多様な考え、生き方、嗜好を持つことができる。
多様性とは『自由である』という事だ。
公序良俗や法律、マナーに触れないのであるなら、誰もが『自由』でいられるはずだ。
だが、社会に出ると違う。
他人の自由が許せない。
多様性など認めたくない。
だから、他人の自由を規制したがる。自分は自由でいたいが、他人の自由は許さない。
ちなみに、その河本君だが、数ヶ月後に店長(代理)の俺とも仲違いをして逃げるように、店を辞めていった…。
彼にとっての"社会"は、恐ろしく生きにくい世界だったのだろう。