『何故、人は思い込みをするのか?』
『何故、人は決めつけるのか?』
俺が社会に出てから、いつもぶつかる問題だ。どんな人間でも必ず"思い込み"をする。俺からすると、(何で?)と思える情報で"決め付け "をする。
何故なのだろう?
その答えを俺は何となく出している。
俺が以前勤めていた地元の出版社の上司は、非常に"思い込み"や"決め付け"が強い人間だった。
ある日、とあるクライアントの案件がトラブった。
原稿の校正を担当していたのは俺であった。完全に俺のミス。
上司に謝り、制作部にも謝り倒した。
そして、翌週もクライアントから依頼が来た。校正もまた俺だった。
内心、(良かった~🌠)と安堵したものの、もうミスれない。俺は上司にいつもの倍の校正時間を提案した。ここは慎重にチェックし、2度とミスしないようにしたかった。
だが、上司はそれに怒った。
「そんな事より、◯◯さん(クライアント)は早くラフ(原稿)を仕上げる事を望んでいるんだよ!💢」
それはそうなのかもしれないが、先週のミスもある。俺は何回も「校正をじっくりとさせて欲しい」と願った。別に"サービス残業"しても良い。とにかく今回は校正ミスをしたくなかった。
だが、上司は「とにかく仕上げ速度優先」を譲らなかった。
「…大丈夫。速ければ、速いほどあそこの担当者、喜ぶから」
そう"決め付け"ていた。『クライアントは正確性より、速さを重視している』と譲らない。
だが、俺ももう校正ミスはしたくない。何度もお願いする俺に、上司は怒り出した。
「お前は、何て的外れな事を言っているんだ! そんなわけないだろう 」
そういう感じで怒った。
結局、その週には校正ミスは無かったので良かったが、次の週にはまたミスが出た…。
なので、上司は度々そのクライアントの本社に謝罪がてら挨拶に行き、原稿依頼の度にクライアント側の担当者に怒られていた。
また、ある日。
俺はどうしても外せない用件が出来た。
朝、会社を出ようとすると上司から、「午後1時には戻ってこれるか?」と訊かれた。
俺が「それは無理ですね…」と答えると、また怒り出した。
「そんなわけがない。午後には帰ってこれるはずだ。…いや、午後には戻って原稿校正しないといけないだろ?」
そうしたいのは山々なのだが、どう考えても時間的に無理なのだ。
俺は、その事を何度も説明したが、、上司は「それはおかしい」の一点張りで聞き入れず、「午後1時には戻って来い。…無理ならすぐに連絡しろ」とわずかに"妥協"した。
結局、俺は午後1時にはまだ相手先から離れる事が出来ず、上司に途中で連絡した。
その報告を受けた上司は明らか不満そうだった。
「…なんだよ、それ?」
これに俺は、カチンと来た。
どうも、俺がわざと帰社を遅らせたと"思い込んだ"らしい。
そんな事はない。
これでも早く帰社できるよう、なるべく早く用件を済ませたはずだ。
というより、事前に何度も「それは無理」と言っていたはずだ。説明もした。
会社に帰り、俺は上司に「だから言ったでしょ!」とキレた。
すると、上司は逆キレした。
「仕方ないだろ! こっちは仕事が詰まっているんだ! 文句あるのか! 」
文句は無いが、何故、固くなに『1時には帰って来れる』と思い込んだのか、わからなかった。
俺と上司の関係はますます悪化した。
また異様なほど"思い付き"が多い人であった。
しかも、そのどれもがロクな案ではなかった。
「あのさー、良いこと考えたんだけど?」
そう上司が言い出すと、ロクな話ではなかった。
だが、一番困ったのは、その上司の提案に対して意義を唱えると、上司の機嫌が途端に悪くなる。明らかに不満げな表情になるのだ。
「…ってならない可能性もあるなでは?」と、失敗する可能性を示唆するのだが、「何で俺の提案に対してそんな否定的なんだ?」と怒る。
自分の考えが必ず上手く行き、その方法が唯一の方法で、それしかない、と決め付けているのだ。
だから否定されると、頭に来るらしい。
俺らももちろん、そうなれば良いと思っている。
だが、必ず上司の想像した通りには物事は進まない。
そうした『もしも…』の時の為に"副案"を考えておくのはそれほど悪い話ではないはずだ。
この世に"絶対"は存在しない。
だが、そうした主張を上司は嫌悪した。自分の考えが絶対であり、間違ったり、失敗することなど考えたくないし、それを口にする事は自身(上司)への反抗と思えたようだった。
何故なのか?
何故上司は『クライアントが早く原稿を欲しがっている』と思い込み、『1時には帰って来れる』と決め付け、自分の提案が上手く行くと信じて疑わないのか。
何故、俺の言葉を信じなかったのか?
それは、自分の信じていたのと同時に、他人の起こす事が自分の思惑通りに行かないと"納得"ができなちからではないか?
そこにあるのは、強烈な"自己肯定"だ。
『自分は常に正しい』
『自分の思っている通りに物事が進むはずだ』
『何故なら、常に正しいのは自分だから…』
だから、自分の"思い込み"や"決めつけ"を否定する人間が許せない。
正しいのは常に自分なのだから。
また別の角度から見たら、自分への"希望"を疑わない、純粋な人間とも言える。
かつて、プロレスリングNOAH(ノア)が『プロレスリング界最後の希望』と呼ばれた時代があった。
2000年代半ば、総合格闘技ブームに押され、新日本が凋落、全日は1999年の選手名鑑離脱により、勢いを失った。
その全日の流れを組むノアは、マット界で唯一元気なプロレス団体だった。
それは今から思えば、『ノアだから』ではなく、『ノアしかなかった』という"消極的"な選択だった。
新日本は格闘技に感化され、訳の分からない。MMAかぶれの試合をしていた。
全日本は低迷。
インディ団体は壊滅的だった。
そんな中、"プロレス"を見せてくれていたのは、ノアだけだった。
だから、ノアは指示された。
文字通り、プロレス界の最後の"方舟"だった。
ノアしかなかった。
ノアがプロレスの最後の"砦"だったのだ。
今から思えば、これこそ"思い込み"だ。
確かに日本のプロレス界は総合格闘技の波に押され、減退していた。
だが、総合格闘技がたまに見せるリアリティーのある"退屈さ"や大会の演出に混じる"プロレス感じ"を思えば、それ(MMAブーム)は一時的であり、もう一度プロレスに流れが来るのは予想出来たはずだ。
プロレスに最後は無い。
最後が無いのなら、ノアは方舟ではないのだ。
俺もPRIDEなどの総合にウェイトを置きつつ、プロレスの情報は入れていた。
PRIDEを辿れば、UWFになり、新日本に行き着いてしまうからかもしれない。
日本の総合格闘技の源流には、プロレスがある。
総合格闘技(MMA)は、いずれプロレスに回帰する。
プロレスと総合格闘技(MMA)は違う。
プロレスは『結末の決まっている』お芝居であり、ショー👯だ。お芝居だ。
総合格闘技(MMA)は、結末が決まっていない純粋な競技であり、スポーツだ。(俺は、プロレスもスポーツだ、と思うが)
お芝居とスポーツ…。
それは違うのだが、プロレスという次元では、繋がりがあり、極めて近く、交わってしまえるのだ。
格闘技を観ていた"元"プロレスファンは、気付いていたはずだ。(特にUWF信者は)
盛り上がっている格闘技の中には、"プロレス"の要素がある事は分かっていたはずだ。
だが、ノアを『方舟』と思えば、減退するプロレスに残った最後の"希望✨"と言える。『プロレスリングノアとしかない』と思える。
そこには、『ノアはプロレス界の方舟』と思いたい感情がある。
希望を見たいプロレスファンはノアに希望を見出だしたい。
減退するプロレス界や、躍進する格闘技、それに"釣られる"俺のようなファン…。
だから、希望を見たい。
『俺達(プロレスファン)だけのプロレスが見たい』
そこにあるのは、やはり感情だ。
ノアを方舟と思いたいから、ノアは方舟だったのだ。
自分の思い通りに物事が進むと、思い込んでいた上司と変わらない。
だから、思う。
人は思い込みたいから、思い込むのだ。
そうした方が、自分や自分の周りの状況、自分の気分が良いからだ。
『そうなるはず』、『そうならなくてはいけない』
『間違いない…』
そう思いたいから、『独り善がり』でも良いから思い込むし、決め付ける。
だから、そうならないと怒る。
思い込み通り、決め付け通りにならないと、怒る。
誰かに否定されると、怒る。
自分の思い込みを否定するのは、自分自身が否定されている事に他ならないからだ。