鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

岡部元信と高天神城と“ドン・キホーテ”


今川家・武田家に仕えた岡部元信が辿った生涯|高天神城で徳川軍に玉砕した忠義者【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

 

この岡部元信の話。

非常に気になっている。

俺が遠州地方の戦後時代の人物らの一人だ。(後は、“犬居の天野一族”や“近藤信用”、“小笠原氏助(信興)”がいる)

 

この岡部元信は、元綱、長教、真幸、など名があり、どの名も同じくらいの期間名乗っていて、通称は五郎兵衛。

高天神城城代の頃の名乗りは長教かと思われる。俺の書いた小説でも長教としている。

彼は旧今川家臣団の中でも朝比奈信置や孕石元泰(家康人質時代の鷹で揉めた人物…)と並ぶ重鎮であり、三者とも信玄の駿河侵攻で武田家に鞍替えしている。

この中でも、元信は戦上手で知られ、当時は東海道にその勇名が知られていた武将だった。

 

また古風な武士の風格を擁した人物で、記事にあった“幸若舞”の話のように、長い武将生活の中でとこか達観していたような部分があると、俺は思っている。

 

高天神城が徳川軍に包囲され始めた時、元信は主の武田勝頼からの援軍を拒否している。

 

少し微妙なところなのだが、俺の勝手な予想は…、

「ここ(高天神)は、それがしが死守いたし申す。援軍は無用に…」と元信が断った思っている。ベテラン武士の意地がそこに見える。

そういう人物だったのでは?

 

そして、高天神城は難攻不落で、四方を敵に囲まれても、なかなか落城しなかった。

だが、なので援軍(や支援物資が入る)のスキもない💦

 

この元信という人は、生年は不明だが、高天神城籠城戦の時は既に70越えの老将で、その高名さや経験から、囲む徳川軍に与するのを良しとせず、最期の単願(開城助命)が拒絶されると、いよいよ考えが“極まった”。

 

家康本陣への“決死の特攻”で、華々しい最期を選んだのだ。

 

今から見ると、他人の意見を聞き入れなくなったベテラン“爺さん”が、『ここが“命の捨て場所よ”!』と思い込み、勝手に“腹を括った”ような話に、俺は思える。

 

経験豊富で、有名で、責任感の強いお爺ちゃんが、 老骨を振るい、“最後”に“死を覚悟した決死特攻”開始💀💀💀

…それに“つられて(感化された?)”一緒に特攻した若い武士らもいた。

 

その間、記事にあったように、横田甚五郎などはまんまと逃げ出し、甲斐まで戻っている。

(そして城内にいた孕石元泰は捕えられて処刑されている)

 

岡部元信は、その最期が悲壮でもあるし、滑稽でもある。そして、少し迷惑?

 

俺のイメージは、あのドン・キホーテ”に近い。

今とこういうお爺ちゃんいたりしないか?

 

ちなみに、城から特攻した元信は家康の本陣を目指したが、その前にいたのが、この戦いが初陣で“歌舞伎者”の水野勝成(家康のいとこ)であり、元信の開城助命の単願を実質的に拒絶させた信長からの使者は水野忠重(家康の伯父で、桶狭間後、元信が討ち取った水野信近の異母弟)である。

(この戦国時代の尾張水野家の話も、俺はとても興味深い)

 

さらに言えば、前の城主の小笠原氏助(信興)が勝頼に寝返らず、武田軍が高天神を長期に包囲していたら、ここ(高天神城周辺)が本来の“長篠の戦い”になっていた、と俺は睨んでいる。

 

この高天神籠城の始末、また俺なりに描きたいなぁ。改めて…。