鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

2023 1/28 老獪さと腰抜けな人(徳川家康)

石田三成関ヶ原の戦いを決意させ、豊臣秀頼も滅ぼした本多正信日経ビジネスhttps://news.yahoo.co.jp/articles/610d0a61ecc7d21d3abdde94fc5b8dafd3f2a314

 

大河ドラマ『どうする家康』が早くも楽しみだ。

明日(明日)は第4回目だ。


f:id:ojpkb:20230116164322j:image


f:id:ojpkb:20230116164340j:image

 

以前俺は、家康のエピソードを含んだ話を書くために、この徳川家康という人物を少々調べた事がある。

 

とある著名な歴史小説家同士の対談で徳川家康は“凡人”に間違いない…」と評されていた。

 

彼は短気な“元値”がありながら、自身は『たいした器はない』と認めていて、家臣らや周囲の力に頼っていた。(特に青年期以降)

そんな家康にとって、“組みやすい”のが、本田正信(弥八郎)であり、まさに『君臣、水の如し』(正確には“君民”だが…)だった。

 

それは、上のネット記事の関ヶ原の話で…。

 

 このころ、加藤清正武断派大名と石田三成がもめていました。そこで家康はその仲裁をするふりをして、清正らを支援し、三成に「(居城の)佐和山にしばらく蟄居していたほうがいい」とアドバイスします。この佐和山城に蟄居させるという策は、正信が進言したものでした。

 

●正信のもくろみ通りに三成は動いた

 

 話は少し遡りますが、関ヶ原の戦いの前年、加藤清正福島正則ら7将が、石田三成を襲撃するという事件が起こったとされます。私は、これは作り話だと思っていますが、もめていたことは確かです。そこで、敵か味方かを鮮明にするために、三成が自由に行動できる環境をつくるべく、蟄居を思いついたのです。

 関ヶ原の戦いを“設計”したのは石田三成ですが、彼を挙兵に導いたのは本多正信でした。 慶長5(1600)年6月、家康は上杉征伐のため大坂から軍勢を率いて会津に出征します。すると、正信のもくろみ通り三成は動き出しました。三成側に付く大名も明らかになっていき、三成と彼らは関ヶ原の戦いへと向かっていくのです。

 これで敵味方がはっきりしたわけですが、正信もここで1つ大きな失敗をしています。 正信は、三成の軍勢は合わせて最高でも2万と計算していました。家康の上杉征伐軍は5万8000。三成軍は最大2万ですから、5万8000を半分に分けて、上杉と三成に、同時に当てればいいと正信は考えていたのでした。ところが蓋を開けてみたら、西軍はなんと10万。正信は真っ青になるわけです。

 上杉征伐軍が下野国小山に達したところで、家康はこの事態にどう決断すべきか、軍議を開きます。

 

 ここで面白いのは、家康は相変わらず自分には優れた才能がないと思っているため、彼は絶対に「自分はこうしたいからこうする」とは言いませんでした。12年の人質生活がありますし、織田信長、秀吉にもずっと頭を押さえつけられてきた故の、性格的な問題もあると思います。 

 

 家康は、何人かがいろいろな意見を述べたところで、「○○の意見が良いように思う」という言い方を、常にするのです。全員に話に参加させて、「それで決まったことだから仕方がない」と、全体に統一感を持たせるためでもあったと思います。 このときの軍議で、自分の計算、読みが違って泡を食っている正信は、上杉征伐軍を解散しようと進言します。征伐軍に参加している各大名は大坂城に人質を取られており、本気で西軍と戦うとは思えない。徳川の軍勢は急ぎ関東に戻り、箱根の関所を固めて西軍が攻めてきたら、そこで迎え撃とうと言ったのです。

 

 これに真っ向から反対したのが、四天王の1人・本多忠勝です。「すぐにも三成を打つべきだ。ものには勢いというものがある。その勢いを失っては勝てない」とぶち上げました。 家康も、西上策を考えていましたが、「忠勝の意見がいいように思う」と述べて、徳川家の総意としました。そのうえで、作戦を実行するに当たっては、誰をどう動かしたらよいかという、個別の作戦を次に立てていきました。 正信は肝心なところで読みを誤ったわけですが、家康はだからといって正信を責めることはしませんでした。正信もあがきません。普通の人間なら、失敗を取り戻そうとあがき、それでまた傷口を広げるものですが、彼はそうはしませんでした。正信は、自分には次の役割があるはずと考え、我慢することができる人間でした。

 

 家康が正信に期待したことは、ここです。家康は、けんか腰の三河武士が多い中で、慌てない正信には、引き続き冷静に状況を見ていてほしいと思っていたはずです。

 

少年期~青年期(今川人質~今川家臣)までと、その後の三河独立期の中で、彼の思考は変化し、織田信長という強烈な人物との関わりや武田信玄などとの闘争(密約)を経て、“変容”したのではないか。

 その為に必要だったのが、弥八郎正信であり、家臣らの絶対忠誠であった。

 この家康の傾向…。

彼は絶対に「自分はこうしたいからこうする」とは言いませんでした。12年の人質生活がありますし、織田信長、秀吉にもずっと頭を押さえつけられてきた故の、性格的な問題もあると思います。

まさに“マニュピレーター”思考

自分はなにも言わず、他人に“忖度”させる。

 

「ワシはそんな事は言っていない。全て“部下”が勝手にやった(やってくれた)だけ…」

 

そんな都合の良い事を言いたがるのは、まさに凡人だ。

自らは“なるべく動きたくない”もしくは、“動いても良いが、自分に都合の良いように動きたい”である。(つまり、自身で“交渉”ができない)

失礼な言い方をすれば、晩年に近付くに連れ、彼は“腰抜け”になる。

よく言えば、老獪か?

それはまさに我々と同じ、凡人だ。

 

そして、彼は“二律背反”な言動で他者を“絡めとる”方法を得ていて、それを弥八郎から見いだしていた、と俺は思っている。

 

そんな奴等は現代でも山ほどいるし、そういった奴等の話を書きたいなぁ。