俺の通っていた大学は、少し奇妙な大学だった。
文系の私学大であり、文学部、経済学部、社会学部があった。
この3つの学部の内、社会学部(社会学科と心理学科に分かれる)のみが飛び抜けて優秀だった。
当然、講師や教授陣もそうした"社会心理"を専門とする方々が多かった。
卒業後はソーシャルワーカーや心療医学に従事する者が少なくない。
何故、そんなに社会学部が隆盛だったのか?
理由は分からない。
ただ、俺は文学部だった。
だが、履修の際には一般教養として心理系の講義を随分と受けた。
それはとても印象的な講義ばかりだった。
『心理学』と聞くと、よくテレビドラマでやる"推理物"の『犯罪心理学』やプロファイリングを思い出す人が多いだろう。
だが、心理学を研究する人からすると、あれは心理学を"応用した分析"や"統計"であるらしい。
例えば、人は『赤色を見ると、食欲を掻き立てられる』という心理傾向がある。
これを分解すると、
『赤色』➡『果物や野菜は実ったり、熟したりすると赤色を帯びる事がある』
『実る・熟す』➡『美味しい食べ頃』
『食べ頃の果実など』➡『食べたくなる』
…という心理プロセスがあり、その"起因"と"結果"だけを取り上げ、
『赤色を見ると、食欲が掻き立てられる』
という事象が表れるように"見えている"のにすぎない、らしい。
ちなみにこの"過程"部分が長くなれば長くなるほど、事象の出現は鈍くなる。
つまり、人は『赤色を見ると、食欲が掻き立てられる"可能性がある"』というのが正しい言い方らしい。
それを聞いたとき、(なるほど!)と思った。
この場合"赤色"というのは、"食欲"を導く"象徴"に成りうる可能性のある起因なのだ。
社会とは、こうした"象徴"がたくさんあり、我々はそれに囚われて生きているのだ。
そんな風に心理学の一面を垣間見ていた大学一年の頃、俺はプロレスから段々と離れていった時期だった。
そして"自由"を謳歌していた。
大学入学で地元(浜松)を離れ、親からも地元の友人関係からも離れた俺にとって、大阪での1人暮らしは初経験と希望と期待に溢れていた。
中学二年からハマり出したプロレスは、例の95年"10.9"で俺の中にあった、
『ガチ(リアルファイト)でもUインター』は強い
という『UWF幻想』をブチ壊れたが、"それ(パンクラス以外のU系団体)もプロレス"と割り切れば、かなり楽しみるようになっていた。
プロレス以外のスポーツを本格的に見るとようになったのはこの頃であった。
92年に現れ出したグレイシー柔術という『黒船』のもたらした『ヴァーリ・トゥード』(なんでもあり)は気になっていたが、俺は新しい生活を楽しみ、プロレスを一つのスポーツ"ジャンル"と捉え、また楽しく見ていた。
『スポーツ・ライターに成りたい!』という淡い希望を持っていたのはこの頃からかもしれない。
そして大学四年の"1.4"、『佐々木健介vs川田利明』に"総合格闘技"臭を感じた俺は一気にプロレス熱が冷めた。
そしてブームになりつつあった、その"総合格闘技"に方にどっぷりハマっていく。(プロレスも観ていたか…)
丁度、大学卒業の時期である。
俺は思った。
(社会に出たら"プロレス"は通じない。喰うか喰われるかの"リアルファイト"だ…)
そんな風に思って社会に飛び出して、もう18年が経つ。
今、思うのは『社会=プロレス』である、という事だ。
社会では"リアルファイト"は少なく、常に"プロレス"を強いられたり、自身が"プロレス"を仕掛ける事が多い。
俺の社会への認識は間違っていた。
社会と上手く"プロレス"出来なかった俺は、だから貧乏であり、誰も助けてはくれず、誰にも顧みられない。
"リアルファイト"を求めて、誰かを傷付け、嫌われ、孤独になった。(孤独なのは居心地が良いけど…)
それを先月から『新社会人へ』と題して書いてみた。
俺の経験を含めて、過去の事を書いてみた。俺のような人間にならないようにもと。
いろいろな事を思い出してきた。
それだから、尚更に思う。
『社会はプロレス』だ。
大学一年の頃に学んだ心理学からすれば、『社会という"事象"を象徴しているのはプロレス』である。
そう、しみじみと思う。
そして、少し書き足りない気がしてきた。
"リアル"ばかりを崇め、追い求めても、そこに"実り"は無い。
リアルを越えた"幻想"に"リアル"があり、それが社会と繋がっている。
皆、分かっているはずだ。
俺はそれを捉えきれていなかった。
そんな悔恨を絡ませつつ、もう少し『社会=プロレス』を書き表していこう。
トランキーロ!(あっせんなよ!)