先日、今年の県内プロ野球のドラフト候補に、
磐田東高校の二俣、という高校生が上がっているという。
彼の苗字、『二俣』がかなり気になった。
二俣氏とは、遠江中部にいた、源氏の血を引いた横地氏の支流であり、室町時代に駿河から侵出してきた今川氏に従い、本家(横地氏)を裏切っり、いち早く今川の家臣になった氏族である。
その苗字からわかるように、二俣城の城主だった。
その頃の二俣氏の当主は二俣昌長である。
二俣昌長は、謎の多い人物だ。
元々、二俣にあった城は今の二俣城から北にある笹岡城(二俣古城)である。
それが、今川氏が遠江に侵出してから、城主を任された(城代という説も…)昌長が徐々に“新城”(現・二俣城)に移行したものと思われる。
その城の名前から、新しく建てられた城は、二俣昌長が城主(城代)になったから、『二俣城』となったのか?
それとも、『二俣』に建てられた新しい城に、(横地)昌長が来たから、昌長は苗字を『二俣』にしたのか?
どちらか?
ちなみに『二俣』という姓名は、平安時代頃の古文書に出てくる名前だ。
ならば、前者が正しいのか?
二俣氏が、城に来たから『二俣城』なのか?
だが、あの場所(二俣城跡)は、おそらく二俣昌長が来る前から“二股”になっていたはずだ。
天竜川が今の流れに固定したのは、江戸時代。
それまでは“小天竜”と“大天竜”の2つの流れがあった。あそこで二股に分かれてのだ。
…となると、二俣城は二俣昌長が来る前から、二股な土地になっていたのだ。
『川が二股になっている場所』に“たまたま”、二俣という苗字の人物が来た…。
そんな事ありえるのか?
二俣城(新)を完全に移行させたのは、昌長の後の城主、松井宗信とも言われている。
二俣昌長は、二俣城在中に「私は、城を任されたる器ではないです💦」と、途中で城主(城代)を辞任してしまっている。
また、この頃(今川氏管轄期)の二俣城の城主は目まぐるしく変わっていて、まだはっきりと分かっていない部分もあるようだ。
二俣氏とは、どういう氏族だったのか?
こうして、“二俣”の姓を持つ人がいるのだから、二俣氏は遠江中部を発祥として、今も脈々と生きているのだ。
非常に気になる。
この話(二俣城)を書いた小説があるのだが、もう少し手直しして、発表しようか?