鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学⑯ ちやほやレストラン🍺🍴

前回、『虚栄心』の話を書いて思い出した事がある。

あれはもう何年も前、ある女性とファミレスで食事をしていた時の事だ。

そのファミレスは俺の自宅の近くだった。
店に入りテーブルに座ると、彼女はあたりをキョロキョロと見回し出した。

俺「ん? どうした?」
👩「…ここって、あなたの家の近所よね?」
俺「…あぁ。そうだけど?」
👩「誰から知り合い、いないの?」
俺「?」

そう尋ねられて、俺は店内を見回した。
いない。
ま、いても声などかけないが。

俺「…いないよ」
👩「そう…。……呼ばないの?」
俺「はぁ? 呼ばないよ」
👩「何で?」
俺「何で呼ぶんだよ?」

正直言って、呼べる友人などは一人もいない。
そして、この後、彼女から出された言葉に俺は驚愕した。

👩「……私、"ちやほや"されたいの!」

彼女のこの願望には2つの無理がある。

まず、例え、俺の知り合いを呼んだとしても、その友人らか必ず"ちやほや"してくれるとは限らない。
彼女の容姿はそこそこ良いと思うが、人の美醜の好みはそれぞれだ。
必ずしも『かわいい』『キレイだ』と持て囃してくれるとは限らない。

彼女はそこまで自分の姿に自信があったのか?

また、俺にはそんな友人がいない。
その時の俺は会社(ブラック企業)を辞めた直後であり、友人との関係が希薄になって行った頃だった。
…会社を辞めると、何故か友達は去っていった。

この後、再就職した会社を解雇されたり、脳腫瘍になったりして、今は地元の友人はゼロに近いが…。

その頃から、そんな感じだったのは彼女も分かっていたはずだ。
それなのに何故、俺が友人を召集できると思うのか?

裏を返せば、彼女は、無理にでも俺の友人を集め、"ちやほや"されたかったのだろう。

少し分かる気もした。

俺にも"ちやほや"…とまではいかないが、他人に慕われていた(と思う)時期があった。

高校卒業後、大阪の大学に進学し、学内で友人が多く出来た。サークルのリーダー的な存在になり、よく飲み会🍻なんかして盛り上がっていた。
後輩から「鈴木さん、鈴木さん!」なんて騒がれて、その気になっていたなぁ。

あの頃、俺は確かに"ちやほや"されて(?)いたのかも?

だが、社会に出てから改めて見ると、果たして俺の近くにいた人間らは、本当に俺を慕っていたのか?、と考えるようになった。

大学卒業後もたまに顔を会わす奴もいるが、
俺が仕事を辞め、病気をすると自然に離れて行った人間もまた多い。

ま、それも『良い思い出』だから、特に恨んではいない。それに俺も連絡をしなくなった"元"友人がたくさんいる。

人間にとって、"賞賛"の声は耐え難い魅力がある。
そこに打算や下心が見えても、『素敵!』『凄い!』『さすが!』の声には抗い辛い。
嬉しいし、そういう声を聞いていたい(嘘でも…)

このレストランの一件の後、再就職した出版社でおかしなクライアントがいた。
掲載依頼の電話の際に、

俺「…はい、こちら(株)○○○です」
ク「あ、俺ね、アンタの雑誌にもう十年前から広告出していて、そちらの〇〇君とは親密にしている…」

と、自分が如何にこちらの会社に"貢献"しているかアピールするクライアントがいた。

俺としては内心、『だから、何?』と
小馬鹿にしていたが、このクライアントはそうして相手より上の立場にいないと承知がいかないのであろう。

まさに"器が小さい人間"なのだが、そこにはやはり『他人から賞賛されたい!』という意識が垣間見れる。

だが、残念だが、賞賛は金銭では変えない。その人間の人柄、行動、発言が他者の心理を揺さぶるから尊敬に繋がり、賞賛を得られるのだ。

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"レインメーカー"オカダカズチカは、『金の雨』を降らせるから「凄い!」のではなくて、プロレスラーとしての力(身体能力を含めて…)が圧倒的だから凄いのである。

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また、金銭で得た"賞賛"が果たして本当に"賞賛"なのか怪しい。
そこには他の意図が見え隠れするからだ。
また、必ず他人が自分を尊敬するとは限らない。

だが、ファミレスでの彼女👩は賞賛を欲しがり、愚かなクライアントは自分の貢献をひけらかす。

無理と欺瞞を承知で賞賛を受けたがる。
恥ずかしい存在だが、そう考えている俺もまた賞賛には抗えない(と思う)。

人は、虚栄心には逆らいがたいのだ。
見栄を張りたがる人間の心には、賞賛への飽くなき渇望がある。

俺にもある、と思う。
やはり「鈴木さん、最高」「鈴木君と仕事出来て良かったよ」なんて言われたら、嬉しいし。そこに別の意図があっても、嬉しいし。

ただ、俺には"あの時"の皆が"去っていく"感覚がある。
一時の賞賛、賛美、喝采は、本当に"一時"だ。
残念だが、そこには真実がない。

「それでも賞賛(ちやほや)が欲しい!」というのであれば、それは「一生、幻想の中で良い」と言っているようなものだ。
俺の言う"小さなグループのリーダー"だ。

それはそれで楽しいのかもしれないが、幻想は現実とは相容れない。
(だから、グループに拘るのだろうな)

プロレスの熱狂が、会場から出ると退潮していくように、賞賛もまたいつかは終わるのだ。

『賞賛を浴びたい』のなら、いつもその終焉を意識しておくか、最初なら欲しがらない方が良いのではないか?

プロレス会場から立ち去る時、いつもそんな事を感じて、あの彼女👩を思い出す。