先日、よく分からない事に怒っている人を見た。
「あいつは、オレを小バカにしている! 頭に来る! ぶっ◯してやりてぇ!💢」とキレていた。
だが、俺から見ると、その怒りの対象の方はそこまでその人をバカにはしていない。
…というか、相手にしていない。
たが、本人は「バカにされた!💢」と怒り心頭であった。今にも殴り付けるような雰囲気と怒気を孕んでいた。
こういう人が俺の周りにはよくいる。
他人の何気ない言葉、態度に傷付いてしまう人間…。
良く言えば、繊細。
悪く言うなら、過剰反応。
俺自身も、他人のそうした言動に反応していた事もあるし、逆に、相手を無意識に傷付け、そういう言動を注意された事もある。
少しわかるかもしれない。
人間は他人の評価が常に気になってしまうものだ。
今ではいろんな経験をして、俺は基本的に他人の言動があまり気にならなくなった。
いろんな“評価”も、(…そういう考えの奴もいるな)と思えば、他人の言動は何ともない。気にならない。
だが、その怒っていた人のように、過剰に反応し、キレる💢人がいるは事実。
何で、人は他人の言動が気になるのか?
放って置けば良いだろ?
…と俺は思ってしまう。
(…お疲れ様)と思ってしまう。
なので俺は、他人の些細な態度にいちいち怒る💥人を見ると、不思議さを通り越して、可哀想になる。
他人の行動、言葉など放って置けば良いだろ?
何故、構うのだろう。怒らなくて良い事を自分の思考、視野に入れて、あれこれと悩み、怒るのか?
疲れないか、それ?
(…そして、そうした考えがあまり良くない“結果”になるのも俺は知っている)
⭐そんな人とは別に、何事も『仕方ないだろ?』と言う人間がいる。
何を言っても、「仕方ない」としか言わない人。
何が起こっても、「仕方ないじゃん」と“開き直る”奴。
俺はこの言葉があまり好きではない。
これは気にしてしまうのだ。(バカ)
「仕方ない」とはその人の勝手に決めた“限界”である。俺からしたら、「まだまだやりようがあるだろ?」と思うし、『仕方ない』事態になったのは、「仕方がない」事をした、オマエ自身だろ?
お前が“区切り”を付けるなよ。
俺には『仕方ない』という人間が、すぐに諦め、すぐに他人に任せる“腰抜け”に思えて仕方ない。
確かに世の中に“仕方ない”事がある。
個人では成しがたい事や、実施不可能な事もある。
「頑張れば、できる!」は聞えは良いが、個人で成し得る事には限界がある。
だから“仕方ない”は妥当かもしれない。
しかし、何も対策せず、何も動かず、ただただ受け身でいる人の『仕方ない』は非常に不快だ。
些細な事でキレる人と同じくらいの“哀しさを感じる。
考える事を放棄していないか?
こうした『仕方ない』を連発するバカが、最終的にどうなるか、俺はいっぱい見てきた。身に起きた事に対応できず、『仕方ないだろ?』と“諦める”(その人にとっては精一杯の努力…)と、それは“悲劇”しか生まない。
哀しい人たちだ…。
“気になる人”らと、そんな哀しい人らをみていると、どちらが哀しいか分からなくなる。
気にするのもダメ。
すぐに諦め、他人に任せたり放棄するのダメ。
要するに、自分で考え尽くす事を止める事ではないか?
『気にして無用に怒る』のは、他人への決め付けであり、人間観察の放棄。
『仕方ない』と諦めるのは、事態の放棄だ。
怠慢だ。
俺は、そんな風にならないようにしようと、改めて思った。