大学時代の先輩に、森橋(仮名)さんという方がいる。
口は悪いが、世話好きな先輩だった。よく遊んだり、メシを食ったりした。
この森橋さんは、とにかく理屈っぽかった。
素直に人の話を聞かない。自分の意見を主張する。
何を言っても、理屈で返すのだ。
俺も何度か、この理屈でやり込められた。
俺は、「この人、やたらと“屁理屈”をこねやがるな…」と内心で思っていた。
悪い人ではないのたが、小うるさいのだ。
…本人には言えなかったが。
そんなある日、森橋さんに違う先輩がからかいながら言った。
「お前は屁理屈しか言わんやないか?」
それに対して森橋さんは、
「…屁理屈も理屈やで?」
と、威張るように言い返していた。
それを聞いて、俺はこの森橋という先輩の見方を変えた。
『屁理屈も理屈』
それは間違っていないと思う。
“屁理屈”というのは、いわゆる詭弁というやつで、大した事でもない話を、言葉でどうにかしようと、無理やりに押し通す、“正当化”するのが、屁理屈だ。
それを『理屈=理論』として森橋さんはきっと自分を正当化している。自身を間違っていない、と思っているのだから。
こういう人に、正論でぶつかってもダメ🆖だ。
何故なら、自分が間違っていると認めないからだ。
例え、間違っていても認めない。あれこれと理屈をこね出す。長くなるだけだ。
(この人と真面目に話をしてもダメだ…)(…真面目に相手してもムダだな…)と思った。
俺にも小さなプライドがあり、ついつい“議論”っぽくなり、屁理屈を浴びて、口論になる。
これがダメなのだ。
そんな森橋さんは、屁理屈っぽいところを抜かせば、世話好きな優しい先輩だった。
俺の嫌いな自分の考えを押し付けてくるようなバカでは無かった。
「止めときまーす」
「すんません、無理っす」
「…それ、嫌です」
などと言えば、無理強いしてくる人ではなかった。物分かりがよく、さっぱりとした性格だった。ただ“議論”っぽくなると屁理屈をしてきて、小うるさいのだ。
なので、そろから俺は森橋さんの話を真面目に聞かない事にした。
「…あ、そーすね?」
「ホントっすかー」
「あ、分かりましたー」
と、“流す”ようにした。
そうすると非常にラクになり、一緒に遊んだり、メシを食ったりしたりした。
“強制”はしてこないから、適当に受け答えしたら
それで対応できる。
屁理屈を言われたら、適当に距離を取れば、向こうからすり寄ってくる。本当は寂しがり屋だから…。(馬鹿にしていたわけじゃないよ…)
屁理屈も理屈だが、議論にならなければ、屁理屈にもならないのだ。
関わらなければ良いだけ。
「別にそれ(屁理屈)をお願いしてませんよ」と言えば、屁理屈は無駄だ。“お呼びじゃない”のだ。
適当に放っておけば良い。
そんな森橋さんとは、卒業後も何度か会ったが、そんな感じで接していたら、それなりに仲良く出来ている。
優しい先輩のままだ。
良い先輩のままである。