将棋の世界で言われている話。
『将棋の“構え”で一番強いのは、最初の駒の並び』という言葉がある。
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
角 飛
香桂銀金王金銀桂香
⬆️
※この最初の駒並びの事
つまり、最初の型から駒を動かせば、それだけ負ける確率が上がる、という事だ。
だが、駒を動かさないと、対戦相手を倒せない。
別の言い方をすれば、「将棋とは、最初の型を崩した時点で負けに向かっている」と言えて、「将棋とは“負ける”闘いをする」という何だか哲学のような話だ。
これを俺たちの人生に当てはめると、「人は動けば“負ける”」であり、「“動き”は負けの始まり」と言える。
では、動かないのが、勝ちなのか?
俺には、何をして“勝ち”で、その“動き”とは何か、ということもあるが、“何もしない”=勝ち、とは到底思えない。
人は思考し、行動する事で、“勝ち”を得るのであり、“動かないで勝つ”とはイメージしにくい。(“動かない”という動作、とも言えたりする?)
だが、もし“動けば負ける”を前提とするなら、人の言動はそれだけで“負け”でしかない。
いや、動く事を想起するだけで“負け”てないか?
例えば、誰かに「お前のその仕事は、必ず失敗する」と“負けを予想”されたとしよう。
当然、言われた側は「そんなもん、やってみなきゃわかんねーだろ?💢」と反論し、心の中で(…大丈夫。上手く行く…)などと念じるように強く思う。
思うが、そう思った時点で“負け”が始まっている。
何故なら100%成功する仕事は存在しないからだ。
人はミスをするし、たまには計算が狂う。判断を誤る。誰かの邪魔が入るかもしれないし、不運もある。そもそも最初から無理、…なんて事もある。
必ず成功、成果アップ…などあり得ない。
もちろん失敗すもないが、必ず成功もあり得ない。そこを「必ず失敗…」と言われたら、その通りになる可能はもちろんある。
そして、成功もありえる。
しかし、誰かに「失敗するかもよ?」などと言われた時点で、人はそれ(失敗)を意識してしまう。
意識し、本来の実力をだせないで終わる。
それが仕事で、それか社会だ。 (と俺は思う)
大事なことは“動じない心”(不動心?)などではなく、“動けなくなる理由(条件)”を作らない、という事では?
誰にも影響されてはいけない。
影響されるような要因、関係性、存在に近づかない事であろう。
人の話をホイホイ聞く友人がいる(た)。
他人の言葉に乗りやすいのだ。
もう一人、やたらと他人に“話したがる”友人もいる(た)。
他人に自分の言葉や考えを聴かせたがるのだ。
前者を良く言えば“素直”、悪く言えば“ブレやすい”、
後者を良く言えば“親切”、悪く言えば“自己中・独りよがり”。(屁理屈?)
どちらが悪くて、どちらが間違っているとは言いきれないが、互いに納得の行く“カタチ”を取れば良い。
例え、話を良く聴いて、信じると決めたならそれで構わない。しかし、聴いても納得しないなら、従わない。示された方法は取らない。
例え、他人の為にと、己の話をしてやたらとして、それの正当性や優位性を説いても、人はアナタに従うとは限らない。
物事が上手く行く保証も無い。
どちらにも動かないのが正しく思える。
そして、それは難しい。
行動するしかない。
人は人として生まれたら、動く(つまり生きる)しかなない。いくら『動けば負け』などと言われても、動いて得るしか、人は生きられない。
人から「無意味だ」「失敗だ」「意味ないよ」「バカか?」、そう言われてもやりたいからやってしまう。
大事なのは、その判断を他人には任せない事ではないか。
自分で考えて、自分で行動する。
必要ならば、他人の“言葉”は聴いたりするが、必要以上に聞き入れない。
そして、責任は自分自身が取る。他人に任せない。
誰かのペースでは無い、自身のペースで、思ったようにやる。上手くいかなくても仕方ない。自分より優秀な人間はゴマンといる。
気にしない。
これは俺自身の問題で、他人は他人。関係無い。こっちご困ったときだけ助けてよ。後は黙っていろ💢
うるさかったら、その人には近付かない。
他人に動じない心が大事なのでは?
そう書くと、「いやいや、“負ける”のは嫌だろ?」と言ってくる他人がいる。
それに対し、「別に…」とか「平気」とか対応するだけ無駄。それが無駄。他人の“コメント”など、どんな名言も“聞くに値しない”。後からメールで文面だけ見とけ。後は“動けば”良いだけ。