鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

2023 9/13 自己肯定と生きる事

 

何度か書いているが、俺は“死”を選ぶ人間を認めない。

友人に“そういう事”をしたバカがいるからかもしれないが、自ら“死を選ぶ”メンタルが分からない。

 

“人間生きてりゃ、どうにかなるだろう?”が、俺の根底にあるから。死んだらどうにもなるない。

 

『それって、お前がポジティブでバカみたいな楽天的な性格だからじゃないの?』『自分を“消したくなる”くらいの気持ちを知らないだけだろ!』と思われかもしれない。(それは確かか?)

 

会社を辞めてから、かなり落ち込んでいる気持ちでいた。(今もそうだが)

 

もちろん“死”など頭を過りもしなかったが、凹む事が多い。(再就職、親父の癌…)

少し自分自身を振り返っていたりした。

 

そこで、ネットで“自殺”の話を観た。

 

少し考えさせられる話だった。

 

思想家・武道家内田樹氏からのメッセージをお伝えする。

 

自己啓発など詐欺だと思っているが、たまたまこの方の本を読んだことがあり、少し気になって読んでみた。

 

「自殺しないために」

私自身は自殺したいと思ったことが一度もない。生まれつき楽天的な性格なのかも知れないが、もうひとつ別の理由があるように思う。

六歳の時にリウマチ性の心臓疾患に罹った。かかりつけの医者がただの風邪だと誤診したせいで、痛みが全身にまわって、身動きできなくなり、大学病院に連れて行かれた時には「もう手遅れです」と宣言された。

余命一月と言われて、両親はショックを受けていたが、本人はあまり実感がなかった。

さいわいアメリカ製の薬が効いて死なずに済んだ。

 

でも、重篤な心臓疾患が残り、医者からは「ふつうの人生」は諦めてくれと言われた。外を走り回ることも、泳ぐこともできないという身体的な制約を課されたので、子ども心に「これからあとは余生だ」と思った。

 

デュルケーム『自殺論』から学ぶ

 

「余」なのだから、好きなことしかしないと決めた。無理したり、我慢したり、遠回り をしたりという無駄ができるほど私の余生は長くない。 中学生のときから煙草を吸い出し、高校生になったら酒を飲むことを覚え、麻雀に熱中し、勉強が嫌で高校を中退し、家を出て、働きながら、ジャズを聴いたり、小説を読んだり、映画や演劇を見たり好き放題なことをしていた。

 

気がついたら身体がすっかりよくなっていて、20歳になる頃には心音異常も消えていた。なるほど「好きなことしかしない」というのは身体にとてもよいらしいとその時に悟った。

デュルケームという社会学者が一九世紀の終わり頃に『自殺論』という研究を発表している。

説得力のある書物で、今でも自殺研究の基本文献だろう。

その中でヨーロッパでは自殺率が一番高いのが北欧とドイツで、南にゆくに従って低下し、ヨーロッパで一番自殺率が低いのがイタリアだと書いてあった。

人は寒いところから暖かいところにゆくと「自殺したい気分」が逓減する。

 

その箇所を読んだときにアルベール・カミュの『魂の中の死』 を思い出した。 寒いプラハでただひとり、どんより曇った空の下で、持ち金が目減りするだけの日々を過ごしているうちにカミュは絶望的な気分になる。 「疲労にうちひしがれ、頭はうつろになり、 僕は扉の掛け金をぼんやりみつめていた。もうそれ以上なにもすることができなかった」

 

でも、そのあと友だちがやってきて、一緒に列車でイタリアへ向かううちに気分が変わる。

 

青空の下の糸杉とオリーブの木を眺め、蝉の声を聴き、草原の香りで胸を満たすうちにカミュは「ここで僕は世界を前にしている」という深い自己肯定感を回復する。

 

「環境」と「宗教」

 

自分の周りの環境が冷ややかだと人は生きる意欲を失い、世界が自分を暖かく歓待していると感じると生きていてよいのだと思える。当たり前と言えば当たり前である。 デュルケームが指摘していたもう一つは宗教の関与である。

ヨーロッパでは、プロテスタントの自殺率が最も高く、カトリック教徒がそれに続き、ユダヤ教徒が一番低い。

プロテスタントの場合、人は信仰によってのみ義とされるわけで、おのれの信仰を確認するために「私はほんとうに神を信じているのか」と日々内省しなければならない。

この自問に満腔の自信を以て「はい」と答えることはむずかしいだろう。

一方、ユダヤ教徒は無数の儀礼や戒律によって、着る服から食べるものまで、日々の営みのすべてを通じて信仰を確認せざるを得ない。

イスラーム教徒も同じである。儀礼の多い宗教では、やることが多すぎて、自分の信仰の揺らぎについて不安になる暇がない。

この理路もよくわかる。

だから、もし若い人が自殺したいという気分になっていたら、「暖かいところへ行ってレイドバックな気分になること」と「儀礼戒律さえきちんと守っていれば神からの承認を実感できる宗教共同体に帰属すること」を私なら勧める。

他にもいろいろ手立てはあるだろうけれど、この二つは経験的にかなり有効である。

 

私の自己肯定感が最低だったのは、大学を卒業したけれど、職にも就かず、毎日ぶらぶらしていた頃である。ささくれだった気分で暮らしていたその時に、たまたま正月のテレビで小津安二郎の『お早よう』という古い映画を観て、憑き物が落ちたように穏やかな気分になったことがある。

安らぎを求めて、それから一年ほど東京中の映画館をめぐって小津の映画を観歩いた。そしてある日ふと「これからまじめに働こう」と思った。思わぬところにセーフティネットはあるものである。

 

 

俺が気になったのは、

 

プロテスタントの場合、人は信仰によってのみ義とされるわけで、おのれの信仰を確認するために「私はほんとうに神を信じているのか」と日々内省しなければならない。

 

この「私はほんとうに神を信じているのか?」という、愚かな自問だ。

これはまさに“オープンクエスチョン”(誰にでも当てはまる質問=心理的足枷)だ。

 

この質問に囚われると、ひたすら自省し、終いには『自分は正しいのか?』という疑問に行き着かないか?

 

この世に、自分の正当性を100%証明できる人間なんているか?

馬鹿馬鹿しい。

程度はあるが、人は誰でも自己肯定感がある。

 

こんな俺でもあるし、環境や評価により上下する。前の職場では低くなっていたかな?

 

だが、ただそれだけ。

この記事のように“環境が暖かくなれば”、自己肯定感は増える。

別に“神様”に認められようが、無かろうが、人は生きる。

神様などいない。


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凹んでいると、『俺って正しいのか?』と自問したくなる。

よく考えたら、そんなものに答えはない。

時と場合により違う。

去年、新型コロナで死にかけた(大袈裟)時は(正社員になる!)と思い、息巻いたが、なってみたら、正社員でも“組織”は選ばないと『もう正社員などたくさんだ💢』となった。

 

判断基準はいつも自分だ。

神様などという曖昧なものに頼るな、質問するな、考えるな、バーカ😝😝😝


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正しいかどうかは、自分で考えてから、他人の“話を聞こう”。

マニュピレーター(先導者)の言いなりになるぞ?