先日書いたアンビリーバボーの『豆腐』の話。
…この話には、さらに俺が感心した続きがある。
この豆腐屋の社長は、高級豆腐を作りを薦め、百貨店に紹介してくれた農家にお礼を述べに行った。
そりゃそうだ。
この農家の「好きにやれば?」という言葉で一念発起し、百貨店の仕入れ担当を紹介もしてくれたのほ、この農家。おかげでこの豆腐屋は復活したからだ。お礼はするべきだろう。
だが、その農家は礼を断ったという。
「…お礼はいいよ。もしお前さんに似たような奴がいたら、今度はお前さんが“そう言って、そいつを手伝って”やれ…」
そう言って、豆腐屋を帰したらしい。
で、その豆腐屋の社長は、その後に訪ねてきた納豆工場の社長に、あえて『自分の好きにやってみろ…』と促し、納豆を知り合いの百貨店に卸してやったりしたらしい。
おかげで潰れかけた零細納豆工場は盛り返した。『感謝の連鎖は続く』、というのが、この話だ。
尋ねてきた人にアドバイスして、商売の手伝いまでする…。
これは善意か?
社会に出て、正社員として、非正規で、日雇いとして様々な会社や組織で働いてきたが、“こういう人”は少なかった。
居なかったことはなかったが、極めて少なかった💧
利己的で、排他的な奴らには山ほど出会ってきた。
『人の生来は善か、悪か?』
だが、社会にいると性悪説を信じたくなる。
世の中、頭に来る奴らばかりだ。
すぐに他人を支配しようとする。
他人を自分の思い通りに動かしたがる。
他人の勝手は許さない。
何かあれば、すぐに“組織から排除”。そんな“クソ野”をたくさん見てきた。
ぶち◯ろしたい奴らばかりだ。
だから、人間は悪だ。
どんなに表面を飾っても、悪だ。汚くて、狡くて、自分の事しか考えていない奴らばかりだ。
人の“元値”は悪だ。
だから、他人は“立場”や“利害関係人”で“抑制”してないとダメだ。
“悪”なのだから。
だが、たまにこうした人がいる。
何の見返りもなく、他人を助ける人がいる。
他人に“自分の浮き輪を渡す人”(法上浮き輪理論)がいる。
“深谿”に“手を伸ばして”救ってくれようという人も少ないがいた。
こうした人の話(テレビだから過分に装飾されているとは思うが…)を見ると、“性善説”も信じたくなる。
立場や利害関係人、人間関係が人を悪に変えるのか?
人を元値は“善”か?
分からなくなる。
今まで俺に悪意しか見せて来なかった奴もいる。
でもたまに“善意”の人もいる。
悪意にしかみえないが、それは俺のための善意だったのかも?
善意に見えた人も、突き詰めたら“悪”かも?
人の元値はわからない。
やはり分からない。
そんな事を考えながら、久しぶりに次郎🏮のカウンターで飲んでいる。
俺も誰かの“深谿”を救うべきなのか?
善意と悪意の似ているのは、ともに“リレー”するところか?
誰かに、優しくされたら、他人にもしたくなる。
誰かに、酷い事をされたら、他人にともそうしたくなる。
たぶん、“あのデブ🏭️”はそうだったのかな?
…たが、“あの長髪のチビッ子”は違う。元値も極悪だ。間違いない。
俺もこの“リレー”を加わるべきなのか?