俺は愚痴が大嫌いだ。
そして、愚痴を言うヤツを心の底から軽蔑する。
こうなったのには、両親が関係していると思う。
俺の父はほとんど愚痴を言わない人だ。(酒を飲まなければ…)
子供の頃から、『…親父、機嫌が悪いな』と思うことはあったが、それを家族に八つ当たりしたり、その原因を吐露した事が無い。
寡黙であった。(酒を飲まなければね)
対して、母は愚痴が酷い。
24時間、愚痴しか言っていなかった気がする。(今も…)
俺が子供の頃、俺達兄弟を育てる愚痴を、俺達に言っていた。
それくらい、愚痴しか言わない母だった。
そんな事もあり、俺は他人の愚痴が大嫌いになった。
だが、社会に出ると愚痴は多い。
『愚痴を言わないと働けないのか?』と思えるくらい愚痴しか言わない母のような人間を何人も見た。
そして、腹の底か軽蔑した(している)。
考えてみたら、愚痴に対する答えは全て、『知るか!』で済まないだろうか?
「お金が無いよー」
「誰かと楽しくお酒飲みたいよー」
「朝は眠いよー」
「昨日、寝てないよー」
「あの社長がわがままだよー」
「今日、雨だよー」
「寒いよー」
全て、俺からしたら『知るか!』である。
『嫌ならやめろ、やるな』
『腹が立つなら、ソイツに言え!』
『寒いなら、暖かくしろ!』
と言いたくなる。
…何故、人は愚痴を愚痴を言うのか?
俺が子供の頃からの疑問だ。
『何故、他人は俺の自由を認めてくれないのか?』と同じくらい疑問だった。
そして、社会に出たら愚痴だらけだ。
「あの先生がムカつく」と同級生は愚痴る。
「サークルがつまんないっす」と大学の後輩が愚痴る。
「会社が不当に搾取しているから俺は貧乏だ」と同僚は愚痴る。
「なんで今日は晴れないんだ!」と上司は理不尽に愚痴る。
…そんな奴らばかりを見てきた。
そんな俺が思うに、愚痴には二種類があると思う。
『援助要請』と『共感の強要』だ。
『援助要請』は、その愚痴を言う事で自分を取り巻く不安不満を解決してもらおうという、ずる賢い試みだ。
「あ~、あの人に連絡するの嫌だな。すぐに怒るし、話長いしなぁ」なんて言い出す裏には、
『私の代わりに連絡してくれ』という"要請"がある。
つまり『こんな不孝で困惑している私を助けろよ、いや、自分は助けられる存在だ』という驕り。
そして、『他人は皆自分の意図通りに動くべし』という愚にもつかない"幻想"だ。
『共感の強要』は、明らかに愚痴を言われた人が"解決できない事"を言うパターンだ。
「何で今日、雨が降るんだ!」
「あの社長ほ何もわかっていない!」
「何でこんなに金が無いんだよ!」
皆、突き詰めたら、愚痴を言われた人だけでは解決できない事が多い。
それを他人にぶつける事で、『心の平穏』をみる。
それは、『他人は自分の不満を聞いてくれる存在だ』という、やはり"幻想"でしかない。
だから、だ。
こういう愚痴に真面目に対応しても仕方ない。
相手が求めているのは、解決策ではなく、「本当、そうですね」という共感なのだ。
他人が自分と共通の観念を持っている。
それに人は安堵する。
第一、天候などは人間の力では変化させられない。
また、人の質もそうであり、金銭の増減は個人の努力による。
ただ、そんなことは"愚痴る側"の人間は百も承知だ。
だが、常に自分が"主流派"でありたいと思う。自分の不満や不安が自分のみのものではなく、他人もそうであって欲しい、いや、あるべきだ。
その"幻想"が他人に『共感の強要』をさせる。
そんな奴に解決策を提示しても意味はない。
俺がそれに気付いたのは、もう社会に出てしばらく経ってからだ。
これに俺は相当苦労した。
上司などから愚痴られたら、真剣に解決策を探した。
「それなら、●●●したらどうっすか?」という具合だ。
だが、相手は納得しない。
とにかく『自分は不幸で、差別され、大変だ』と言い張る。
言いようがなくなり俺が、
「それって、単なるワガママでは?」
と言えば、たちまちつむじを曲げる。自分に起こっている諸問題を"解決して欲しい"のでは無く、"共感して欲しい"のだから仕方ない。
だが、俺には意味がわからない。
こうして、ますます人間関係が苦手になってきた。
『援助要望』の方もそうだ。
ただただ他人に『寄りかかりたい』だけの"甘い"奴ら。
愚痴を聞くとロクな事にならない。
ならば、そんな"愚痴を言う他人"とどうやって付き合っていけば良いのか?
それは、"関わらない"ことしかないと思う。
俺は人と話す時、その人間から愚痴を言われると、『コイツとはもうあんまり交流しないようにしよう』と、一線を引く。
"切る"のだ。
切れば、そこで関係は終わるのか?
いや、そうでは無い。
愚痴るのが好きな奴もいる。
愚痴を言うことでしか働けないような"馬鹿"もいるが、そんな馬鹿と関わっていくしかないのも、また社会だ。
遠ざけて、なるべく関わらない方が良い。必要な時だけ会う。
それくらいが良いのでは?
また愚痴を聞かされたら、俺はどんな手に出るかわからない。
だが、そんな事はおくびにも出さずに他人と付き合っている。
それは、俺自身も愚痴を言いたくなる時があったからだ。
脳腫瘍でベッドに寝かされていた病院での日々。
何度も『何で俺がこんな目に合わないといけないんだ!』と頭の中で愚痴りまくった。
まだ30代。
仕事も、恋人も、人生も全て失った気がした。
手術の1日前に『正社員採用試験』の"不採用通知"が来た。
誰かに愚痴を聞いて欲しがった。
絶望していた。
だが、誰もいなかった。自分で乗り越えるしかなかった。
脳腫瘍という病気の原因はまた判明されていない。
『運が悪い』で片付けられる俺の人生が、堪らなく嫌だった。
退院しても、俺を雇ってくれる会社など無かった。
無職で金が無くて地獄を見た。
だから、
誰かに愚痴を言いたくなったが、それで何かが変わる気もしなかった。
頭に来る奴、出来事は山ほどあった。
俺も人間だ。
やはり、そんな時は愚痴りたい。俺の"痛み"を共感して欲しい。
だが、自分の"意思"を100%共感してくれる人間などいない。(家族でも…)
そして、困難は結局のところ、自身が解決しなければならない、と思うようになった。
ならば、誰かに愚痴を言う行為は、自分の弱さの吐露だ。
そして、『コイツには愚痴を言っても良いはずだ』という、甘えだ。
仕方ないのかもしれない。
俺もそんな時があった。
ただ、目の前の問題は、その人自身がどうにかして乗り越えるしかないのだ。
…だったら、関わらずに見守ろう。
俺達、他人がどうすることもできないからだ。
そして、自分に起きた問題はまずは自分で乗り越えよう。
愚痴るな。
誰かに頼るな。
だから、"切る"。
距離を取る。
心の"位置"を離して置く。
(知るか!)と腹の底で罵り、その人間が自分で解決することを"願う"ばかりだ。