自己ユーティリティの高い人間は、大きな矛盾を抱えて生きている。
人間は誰しも自由で、平等だ。
他者を傷付けない限り、何を言って、しても、考えても構わない。
自分も、自分以外と他人もそうだ。
自分と他人は"一緒"(ユーティリティ)だ。
だから、自分"だけ"が何かを"やらされ"たり、"しなければ"ならなかったり、"規制される"のは、不公平で、不平等である。
誰にも自身の"自由"を侵害されたくない。
だが、自分の自由を主張することは、他人の自由を侵害することであり、他人もまた"自由"なのだから、自分がそれを規制することができない。
つまり、『自分の自由は認めて欲しいが、他人の自由は認めたくない』
…ということになる。
自己ユーティリティの高いの人間はこの矛盾を常に感じている。
故に、自分の自由は確保しつつ、他人の自由を規制する方法を模索する。
それが、"小さなグループ"であり、"お金"だ。
自分の意思を一番に尊重し、自分の自由を認めてくれる、自分の為の少人数のグループ。
「このグループに居たかったら、私の言うことを聞けや」
という訳だ。
また、自身の自由を主張する他人に、金銭で"契約"する事で、その自由を規制する。
「こっちはしっかり給料払ってんだ。言うこと聞けや」
という訳だ。
これが、社会でおこなわれている"パワハラ"や"イジメ"の原因の根幹の一つではないのか?
プロレスに『アングル』(英語=angul)という言葉がある。
直訳すれば、『怒り』だが、プロレス風に和訳すると『抗争』となる。
プロレスの試合は全て誰かと誰かの『抗争』を主体に成り立っている。
正規軍vs反乱軍
新世代vs旧世代
軍団vs軍団
主義主張vs反対意見
そうした"アングル"で試合を盛り上げるのだ。
しかし、プロレスの結末は決まっている。
リングでいがみ合い、罵倒し合って、殴り合っているレスラーたちは、リングを降りたら"仕事仲間"であり、プロレスという"形式上"のアングル(抗争)として、抗争しているに過ぎない。
力道山は多くの外国人レスラーを"悪役"として日本に招聘してリングで戦ったが、試合後、仲良く酒を酌み交わしている🍺姿をよく目撃されていたという。
プロレスにとって、"抗争"(アングル)は不可欠であり、それがないと"プロレスの試合"は成り立たない、とも言える。
このアングルが、自己ユーティリティの高い人間の作る"小さなグループ"であったり、"金銭"での契約ではないか?
別に誰かに怒りをぶつけているわけでは無い。
そうした"枠組"を作り、そこに他人を"嵌め込んで"行く事で、自分の自由を確保してはいないだろうか?
言うなら、自分への支配の"アングル"だ。
自由を得たいが、それは他人の自由を侵害する。だから、他人には『私の自由は損害されるけど、○○を得るためには仕方ない』と思わせるのだ。
※○○に入るのは、仲間、友人、愛情、安定、給料など。
そうして、他人を支配する。
本人は"支配"などとは思っていない。
自分の支配下に入るのは、"良いこと"であり、"有益"である。
一つも悪い事は無く、誰も損しない。
むしろ、自分が少し損をして、みんな(支配下の他人)を"保護"している。
そんな馬鹿な事を確信している。
だから、始末に終えない。
この構図の中で、自己ユーティリティの高い人間は、自分の存在を確立している。
だが、これが上手くいかないと、非常にまずい。
自分の存在を確立しえないのだ。
こんな馬鹿(自己ユーティリティの高い人間)にとって、一番の恐怖は、仲間にも入らず、『金も要らない』と言う人間だ。
そんな他人は支配できない。
支配できないどころか、自分を非難したり、攻撃してくるかもしれない。
いや、今は自分の支配下にいる奴等も怪しい。
従っている振りをして、ある日、"裏切る"かもしれない。
この社会に自分の思い通りになる他人などいない。
自分が何をした?
…自分は悪くない。
自分の支配下に居れば、みんな幸せで、みんなは損しないのだ。
それなのに、何故、自分の支配下に入らない。
しかし、自分自身が自由なように、他人もまた自由だ。
誰かの思い通りになる必要性はない。
また、「別にアンタからの"恩恵"なんていらないよ」と言われたら、その他人を縛る理由が見つからない。
他人は全て自由であり、自分の思い通りになる他人など存在しない。
そして、そんな他人のいる"社会"もまた、自分の思い通りにはならない。
アナタがどんなに"良い奴"でも、有益な人間でも、他人や社会は自分の思った通りには動かない。
そうした人間は、社会と関わりを持たなくなる。
自分の作った"小さなグループ"に籠りがちになる。
"籠る場所"があるならまだ良いのかも?
自分の存在を確立できない"自己ユーティリティの高い"人間は、孤立感を深め、自滅する。
俺は、そんな愚かな"選択"をした馬鹿を何人か知っている。
何故、愚かなのか?
それは一言。
『他人など気にしなければ良い』
人は人と交わらなければ生きていけない。
気に入らない人間がいる。
自分を尊重してくれない人間もいる。
話もしたくないし、顔もみたくない。
世の中はそんな奴らばかりだ。
俺も今でもぶん殴りたい奴がたくさんいる。
だが、"そんな奴もいる"のは確かなのだ。
変えようがない。
気に入らない他人がいるのであれば、そんな他人を気に入らない自分も確かにいるのだ。
両方いても構わないではないか?
何故、自分が"滅亡"するアングルに陥るのだ?。
"アングル(抗争)に関わらない"というアングル(抗争)をすれば良い。
他人など支配しなくて良いし、誰かに支配されなくても良い。
7年前、俺は脳腫瘍で死の縁を這いずり回っていた。
今から思えば、"死"がそこにあった気がする。
そんな俺にとって、死とは、滅亡とは、『生きている』事の逆ではない。
"生"の逆は"無"だと思う。
そこには何もない。
怒りや苦しみも無いが、楽しみも喜びもない。全てが霧散し、存在しない。
誰も救われないし、そもそも救えない。
『死』『滅亡』の逆は、『成長』や『勃興』であると思う。
どうなるか、分からないが(それこそ"自由"だ)、何かに成ったり、何かを為す事、その過程に"入る"事だ。
『滅亡』したら、また甦れば良いのだ。
"無"になってしまえば、それもなくなる。
パワハラが嫌なら、そんな組織やめてしまえ。
それでも金が欲しけりゃ、我慢しろ。
イジメてくる奴はブン殴ってやれ。
出来なければ、耐えるか、そこを離れたら良い。
大丈夫。
人は何をしても自由だ。
反抗、従順、抵抗、離脱…。
何をしても良いのだ。『滅亡』しても、またやり直せば良いのだ。
諦めるな。アナタは正しい。
だが、他人も正しい。
アナタが生きている限り、他人も生きている。
だから、何度でも挑め。
嫌なら、止めろ。
好きにすれば良い。
だが、『無』になってはいけない。それはアナタを救わない。
"滅亡のアングル"は『無になる』事ではない。『無くなったように見せかけて、再び現れる』ストーリーだ。