鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学58 何でもあり

総合格闘技はよく、MMA(Mixd Marshal Arts)がと呼ばれる。

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だが、これは総合格闘技が盛んになってから作れた"造語"だ。
総合格闘技』を直訳すれば、『totel fighting arts(もしくはtechnical)』である。

何故、"MMA"と呼ばれるのか?
そもそも『marshal arts』(マーシャルアーツ)とは何か?

実はそれには"ブルース・リー"が関係している。
燃えよドラゴン』や『死亡遊戯』がアメリカで放映されると、"カンフーブーム"が起こった。
リーに憧れたアメリカ人は、アジア人の格闘技(術)を自分たちの物にしたくなった。
アメリカ人から見たら、中国拳法も日本の空手も、柔道も同じ"アジア方面格闘技"である。
それをキックボクシングに取り込んだのが、『marshal arts』だ。

つまり、『marshal arts』自体が"総合格闘技"と同意義である。

ただ、marshalartsには"寝技"の概念が無かった。
"グラウンド(寝技)"の状況からは『素早く起き上がり、踏みつける』くらいの認識しか無かった。
(もしくは立て膝からのパンチくらい)

グラウンド(寝技)の展開など考える必要が無く、スタンド(立ち技)の状況からいかに相手を倒すのか?
それが"最強"の格闘技を決める条件だった。
(この頃のマーシャルアーツは"フィットネス"に近かったらしいが…)

……はずだった。

だが、そこに現れたのが、『グレイシー柔術』だ。

『タックルで相手を倒し、マウント(馬乗り)からボコボコに殴り、嫌がる相手がうつ伏せになったら、裸締め(スリーパー)』

この"闘い方"に強豪らがボコボコにされていった。

最強の格闘技は何か?

それは、すべからく『最強の闘い方は何か?』という問いに繋がる。

『何でもあり』(バーリ・トゥード)というルールの上に於いて、グレイシー柔術の闘い方に勝る闘い方は存在しなかった。(当時)

物凄いパンチ力を持ったボクサー…。
素早い打撃をしてくるムエタイ選手…。
いかなる攻撃にも怯まない空手家…。

皆、その攻撃が当たらないのであれば、その格闘技は"弱い"。

それを示したのがグレイシー柔術であった。

ここで格闘技界に"タックル"、"グラウンド(寝技)"の概念が生まれた。

ちなみに今はそれがさらに進化し、
『ストライカー』…スタンド(立ち技)の状態で打撃中心でKOを狙うタイプ

『パウンダー』…タックルで相手を倒し、自分の優位の状況(マウント)を作り、ひたすら殴るタイプ。

グラップラー』…相手を倒し、最終的には関節技、絞め技でタップを奪うタイプ。

…に別れている。

『何でもあり』は『どんなやり方でも相手を倒す(KO・タップアウト)して良い』という事だ。

ならば、グレイシー柔術の"闘い方"はもちろん問題無い。
そして、それに勝てない。
グレイシーの示した闘い方は、"総合格闘技"(あくまで"何でもあり"というルールの上で)の"答え"だった。

様々な格闘技のエッセンスを持ち合わせた"はず"のmarshal artsとしては、当然としてグラウンド(寝技)を入れるしかない。

そして、その比重は他の格闘技より高い。
グラウンドの展開を否定しては『何でもあり』で勝てない。

marshal artsの中に"グラウンド"があるわけではなく、他の格闘技のエッセンスに"加える"ものとして"グラウンド"がある。

だから、"mixd"(混合)なのである。
ボクシングや空手を"ベース"に、グラウンドの展開で勝負を決する。
『何でもあり』というルール下で勝てる闘い方を"勝ちやすい"ものにする。

それを、後から名付けて、"Mixd Marshal Arts"(総合格闘技)と付けたのだ。

だが、そんなMMAの闘い方は概ね決まっている。
上に上げたグレイシー柔術の見せた闘い方の"路線"から越えない。

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また書くが、『何でもあり』なのだから、競技者は何をしても良いはずだ。

打撃に自信があるならば、目にも止まらぬパンチ👊でKO勝ちを狙えば良い。

だが、そんな選手はほとんどいない(たまにいるが…)。

何故なら、そんなパンチが当たるの事など現実にはあり得ないからだ。また、グラウンドの展開を狙う相手には"必殺パンチ"をかわされたら、タックルで倒され、マウント(馬乗り)されて殴られてしまう。

『何でもあり』で闘うのであれば、皆、あの"やり方"になるしかない。

良い例として『ボブ・サップ』がいる。

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PRIDEでデビューしたボブ・サップは力任せの攻撃でそこそこ勝てた。
だが、PRIDE(MMA)の舞台で勝つのならば、グラウンドの技術を習得するしかない。
グラウンドの技術を得たサップは力任せの攻撃が無くなったが、対して強くはならなかった。

それでもMMAではグラウンド技術を得て、ぐちゃぐちゃとした寝技を展開を擦るしかない。…そうなってしまう、とも言えるのかも。

おかしな話ではないか?

『何でもあり』と言われているのに、突き詰めたら『何でも無し』になるのだ。
実に"不自由"なのだ。

何故か?

そこにあるのは、『勝つために』という"前提"があるからだ。

格闘技である以上、対戦相手がいる以上、"勝利"は絶対的な価値基準である。

これは、正に"social relevance assessment(社会的適合評価)"である。

『お金の為に…』
『人として…』
『社会人として…』

と同じく、これ(勝利)を否定する格闘技者はいない。
何故なら、『お金の為に』働かない人間は、当たり前だが、お金を得れないように、
勝利を否定する格闘技者に勝利は来ない。
また、"勝ちたくない人間"がリングに上がるのはおかしく、厳しいトレーニングをする理由も無い。


対して、プロレスの目的は"勝利"では無い。

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勝利ではなく、観客が興奮することを目的とするプロレスは、勝敗すらも興奮を引き出す為の"舞台装置"である。

何度も書いたが、プロレスの結末はあらかじめ決まっている。
対戦するレスラーらは二人で技を繰り出し合い、観客を盛り上げるのだ。

そして、『どうしたら、プロレスの試合を盛り上がるのか?』『観客を興奮させるのはどうすべきか?』というレスラーの目的に対し、"絶対盛り上がる"、"必ず興奮させられる"方法は無い、または分からない。

プロレスは"結末"(勝敗)だけが決められ、後はレスラー同士の"アドリブ"なのだ。
つまり、"自由"なのだ。

『何でもあり』なMMAが"不自由"であり、結末を決められているプロレスが"自由"なのである。

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人は"規制"することは、簡単に行う。
『それはダメだ!』
『してはいけないぞ!』

そこには
『それは危ない』
『被害を受ける人間が出てくるから』
『みんなが迷惑する』
というsocial relevance assessment(社会的適合評価)がある。

本当に危なく、被害者が出なくとも、迷惑にならなくなっても、構わない。
誰かを"規制"するための"前提"だ。
前提があるから、規制をかける事が出来る。

だが、逆に"緩和"することは難しい。

『何でもあり』はあらゆるsocial relevance assessment(社会的適合評価)に"可"を示す事だ。

自由を保証するはずだ。

何を言っても、しても構わない。何を考えても、何を信じても良い。

それならば、誰も規制できない。

『この"やり方"で勝てる』
『こうすれば、稼げる』
『こうすれば良くなる』

だから、人は他人から規制されても従う。『何でもあり』だから、『それは無し』を受け入れる。
その規制の"先"に求める何か(金、勝利)があるから、『それは無し』を受け入れてしまう。
自由を放棄してしまう。

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もちろん"自由"、"緩和"には責任が付きまとう。

だが、『何でもあり』と言っておきながら『それは無し』はおかしくないか?

「何故?」と聞いたら、

「それは○○の為だから」と"規制"する。
その言葉に逆らうのは難しい。
卑怯ではないか?

こちらから言わせてもらえば、"詐欺師"である。
しかし、緩和を請えば"責任"を問われる。
だから渋々従うしかない。
卑怯ではないか?

究極の"パワハラ"ではないか?

…という事は「自由だよ」「あなたの勝手だ」などと言う人間の言う先には、自由はなく、勝手も許さないのだ。

そんなバカな奴をどうすれば良いのか?

関わらない?

そうするのが一番なのだが、社会において、こんなバカはよくいるし、自分自身がそうだったりする。
また、人間と関わらない生き方など無理なのだ。

その"答え"は、プロレスにあると俺は思っている。

長くなったので、それは次回に…。