だが、これは総合格闘技が盛んになってから作れた"造語"だ。
『総合格闘技』を直訳すれば、『totel fighting arts(もしくはtechnical)』である。
何故、"MMA"と呼ばれるのか?
そもそも『marshal arts』(マーシャルアーツ)とは何か?
実はそれには"ブルース・リー"が関係している。
『燃えよドラゴン』や『死亡遊戯』がアメリカで放映されると、"カンフーブーム"が起こった。
リーに憧れたアメリカ人は、アジア人の格闘技(術)を自分たちの物にしたくなった。
アメリカ人から見たら、中国拳法も日本の空手も、柔道も同じ"アジア方面格闘技"である。
それをキックボクシングに取り込んだのが、『marshal arts』だ。
つまり、『marshal arts』自体が"総合格闘技"と同意義である。
ただ、marshalartsには"寝技"の概念が無かった。
"グラウンド(寝技)"の状況からは『素早く起き上がり、踏みつける』くらいの認識しか無かった。
(もしくは立て膝からのパンチくらい)
グラウンド(寝技)の展開など考える必要が無く、スタンド(立ち技)の状況からいかに相手を倒すのか?
それが"最強"の格闘技を決める条件だった。
(この頃のマーシャルアーツは"フィットネス"に近かったらしいが…)
……はずだった。
だが、そこに現れたのが、『グレイシー柔術』だ。
『タックルで相手を倒し、マウント(馬乗り)からボコボコに殴り、嫌がる相手がうつ伏せになったら、裸締め(スリーパー)』
この"闘い方"に強豪らがボコボコにされていった。
最強の格闘技は何か?
それは、すべからく『最強の闘い方は何か?』という問いに繋がる。
『何でもあり』(バーリ・トゥード)というルールの上に於いて、グレイシー柔術の闘い方に勝る闘い方は存在しなかった。(当時)
物凄いパンチ力を持ったボクサー…。
素早い打撃をしてくるムエタイ選手…。
いかなる攻撃にも怯まない空手家…。
皆、その攻撃が当たらないのであれば、その格闘技は"弱い"。
それを示したのがグレイシー柔術であった。
ここで格闘技界に"タックル"、"グラウンド(寝技)"の概念が生まれた。
ちなみに今はそれがさらに進化し、
『ストライカー』…スタンド(立ち技)の状態で打撃中心でKOを狙うタイプ
『パウンダー』…タックルで相手を倒し、自分の優位の状況(マウント)を作り、ひたすら殴るタイプ。
『グラップラー』…相手を倒し、最終的には関節技、絞め技でタップを奪うタイプ。
…に別れている。
『何でもあり』は『どんなやり方でも相手を倒す(KO・タップアウト)して良い』という事だ。
ならば、グレイシー柔術の"闘い方"はもちろん問題無い。
そして、それに勝てない。
グレイシーの示した闘い方は、"総合格闘技"(あくまで"何でもあり"というルールの上で)の"答え"だった。
様々な格闘技のエッセンスを持ち合わせた"はず"のmarshal artsとしては、当然としてグラウンド(寝技)を入れるしかない。
そして、その比重は他の格闘技より高い。
グラウンドの展開を否定しては『何でもあり』で勝てない。
marshal artsの中に"グラウンド"があるわけではなく、他の格闘技のエッセンスに"加える"ものとして"グラウンド"がある。
だから、"mixd"(混合)なのである。
ボクシングや空手を"ベース"に、グラウンドの展開で勝負を決する。
『何でもあり』というルール下で勝てる闘い方を"勝ちやすい"ものにする。
それを、後から名付けて、"Mixd Marshal Arts"(総合格闘技)と付けたのだ。
だが、そんなMMAの闘い方は概ね決まっている。
上に上げたグレイシー柔術の見せた闘い方の"路線"から越えない。
また書くが、『何でもあり』なのだから、競技者は何をしても良いはずだ。
打撃に自信があるならば、目にも止まらぬパンチ👊でKO勝ちを狙えば良い。
だが、そんな選手はほとんどいない(たまにいるが…)。
何故なら、そんなパンチが当たるの事など現実にはあり得ないからだ。また、グラウンドの展開を狙う相手には"必殺パンチ"をかわされたら、タックルで倒され、マウント(馬乗り)されて殴られてしまう。
『何でもあり』で闘うのであれば、皆、あの"やり方"になるしかない。
良い例として『ボブ・サップ』がいる。
PRIDEでデビューしたボブ・サップは力任せの攻撃でそこそこ勝てた。
だが、PRIDE(MMA)の舞台で勝つのならば、グラウンドの技術を習得するしかない。
グラウンドの技術を得たサップは力任せの攻撃が無くなったが、対して強くはならなかった。
それでもMMAではグラウンド技術を得て、ぐちゃぐちゃとした寝技を展開を擦るしかない。…そうなってしまう、とも言えるのかも。
おかしな話ではないか?
『何でもあり』と言われているのに、突き詰めたら『何でも無し』になるのだ。
実に"不自由"なのだ。
何故か?
そこにあるのは、『勝つために』という"前提"があるからだ。
格闘技である以上、対戦相手がいる以上、"勝利"は絶対的な価値基準である。
これは、正に"social relevance assessment(社会的適合評価)"である。
『お金の為に…』
『人として…』
『社会人として…』
と同じく、これ(勝利)を否定する格闘技者はいない。
何故なら、『お金の為に』働かない人間は、当たり前だが、お金を得れないように、
勝利を否定する格闘技者に勝利は来ない。
また、"勝ちたくない人間"がリングに上がるのはおかしく、厳しいトレーニングをする理由も無い。
対して、プロレスの目的は"勝利"では無い。
勝利ではなく、観客が興奮することを目的とするプロレスは、勝敗すらも興奮を引き出す為の"舞台装置"である。
何度も書いたが、プロレスの結末はあらかじめ決まっている。
対戦するレスラーらは二人で技を繰り出し合い、観客を盛り上げるのだ。
そして、『どうしたら、プロレスの試合を盛り上がるのか?』『観客を興奮させるのはどうすべきか?』というレスラーの目的に対し、"絶対盛り上がる"、"必ず興奮させられる"方法は無い、または分からない。
プロレスは"結末"(勝敗)だけが決められ、後はレスラー同士の"アドリブ"なのだ。
つまり、"自由"なのだ。
『何でもあり』なMMAが"不自由"であり、結末を決められているプロレスが"自由"なのである。
人は"規制"することは、簡単に行う。
『それはダメだ!』
『してはいけないぞ!』
そこには
『それは危ない』
『被害を受ける人間が出てくるから』
『みんなが迷惑する』
というsocial relevance assessment(社会的適合評価)がある。
本当に危なく、被害者が出なくとも、迷惑にならなくなっても、構わない。
誰かを"規制"するための"前提"だ。
前提があるから、規制をかける事が出来る。
だが、逆に"緩和"することは難しい。
『何でもあり』はあらゆるsocial relevance assessment(社会的適合評価)に"可"を示す事だ。
自由を保証するはずだ。
何を言っても、しても構わない。何を考えても、何を信じても良い。
それならば、誰も規制できない。
『この"やり方"で勝てる』
『こうすれば、稼げる』
『こうすれば良くなる』
だから、人は他人から規制されても従う。『何でもあり』だから、『それは無し』を受け入れる。
その規制の"先"に求める何か(金、勝利)があるから、『それは無し』を受け入れてしまう。
自由を放棄してしまう。
もちろん"自由"、"緩和"には責任が付きまとう。
だが、『何でもあり』と言っておきながら『それは無し』はおかしくないか?
「何故?」と聞いたら、
「それは○○の為だから」と"規制"する。
その言葉に逆らうのは難しい。
卑怯ではないか?
こちらから言わせてもらえば、"詐欺師"である。
しかし、緩和を請えば"責任"を問われる。
だから渋々従うしかない。
卑怯ではないか?
究極の"パワハラ"ではないか?
…という事は「自由だよ」「あなたの勝手だ」などと言う人間の言う先には、自由はなく、勝手も許さないのだ。
そんなバカな奴をどうすれば良いのか?
関わらない?
そうするのが一番なのだが、社会において、こんなバカはよくいるし、自分自身がそうだったりする。
また、人間と関わらない生き方など無理なのだ。
その"答え"は、プロレスにあると俺は思っている。
長くなったので、それは次回に…。