地方出版社を解雇された俺は、再(々)就職先が見つけられず、日雇い派遣などでどうにか日銭を得ていた。
さすがに収入が厳しいので、"定期収入"が欲しくてコンビニでのアルバイトを考えた事がある。
その事を友人に相談すると、「止めとけ…」と言われた。
俺の性格(人間関係不可…)を見越しての助言かと思うが、その友人の話では「コンビニは24時間稼働なので、働くバイトは社員を含めて意外にも多い。働く人間が多いと必ず派閥ができる。…そして必ず"仕切り屋"的な奴が権力を振るって威張り散らす。…お前じゃ、合わない。止めとけ…」と言った。
確かに俺の性格上、頭ごなしに指示してくるバイト"リーダー"などは張り倒したくなる人種である。
友人の見方は妥当な"助言"と言える。
当時(2008年頃)から、『コンビニの人材不足』が言われていたので、俺としては、自分のような性格の人間でも"猫の手も借りたい"という状態ではないか、と思ったのだ。
結果としてコンビニで働く事はなかったが、この"日雇い"の時期は金が無く、厳しい時だったが、俺としては自分の過去を振り替える時期だった。
『下らねぇバカが、世の中にはいるな…』
自分の事を棚に上げ、俺はコンビニのバイトぐらいで威張り腐るアルバイトや、過去の"パワハラ"上司らと同じような嫌悪と疑問を覚えた。
なぜ、威張る?
思い返せば、社会人になってから、そんな奴ばかりに出会ってきた。
卒業後に就職した"ブラック企業"もそんな奴らばかりだった。
地元に戻って入った出版社でも変わらない。
そして、そんなバカが口を揃えていうのは、
「それ(アイツ)って、おかしいよね。社会人としてあり得ないよね。人としておかしいよな」
つまり"社会不適合"を叫び、他人を攻撃する。
しかし、だ。
何度か書いているが、この世に『社会的に、人として"合っている"人間』などいるだろうか?
誰しも(俺を含め)、おかしく、間違っていて、またおかしくはなく、間違っていない。
全てが程度の問題で、彼らが指摘する"不適合"は、別の誰かからしたら"適合"ではないか?
つまり、"社会不適合"とは、その多くが"多数決"で決まるような極めて曖昧なものなのだ。
「アイツっておかしいよね?」と訪ねてくる人間自身が実はおかしく、そう訪ねられた人間自身もおかしい可能性がある。
ブラック企業では、
「アルバイトと恋愛関係を持ってはいけない」と言っていた部長の奥様は元アルバイトだった。
出版社では、
「どんな事でも報告しろ」と言っていた課長に報告すると「いちいち報告してくるな!」とキレられた。
矛盾がある主張だが、それがまかり通る。
それは、"social relevance assessmentは(社会的適合評価)"だ。
ブラック企業の頃のsocial relevance assessmentは、『金』であった。
俺はよく「お前、それは"販売機会"を失っているぞ」と指摘され、怒られた。
"稼ぐ事"を目的とするその企業の中で、利益を得る機会を失う事は、その社会(会社)の中では重大な"ミス"である。
『金💰が欲しい。金💰を得る事』を第一に考えるのが"当たり前"であり、その前ではいかなる理不尽もまかり通り、個人的な感情も否定される。
出版社のsocial relevance assessment(社会的適合評価)は『クライアント』(依頼主、スポンサー)だった。
「これ、クライアントからの希望だから…」と言えば、大概の無理が通ってしまった。
俺もクライアントの頼みで何故か新聞広告用の原稿を朝から書きまくった事がある。
クライアントは会社に金💰をくれる大事な存在であり、何を置いても優先されるべき存在だった。その前ではいかなる理不尽もまかり通り、個人的な感情などは否定される。
では、社会不適合の"社会"とは何なのか?
それは自分の周りの数人や、学校、会社などの限られた"組織"ではないか?
その小さな"枠"の中で、適合と不適合を誰かの規準で決める。「○○っておかしい」と指弾する。他人を排除する。
やはり、「おかしい」と言っている人間の方が"おかしい"。
だが、難しいのはその社会(組織)に置いて、「それはおかしいのでは?」と指摘する事は、やはり"おかしく、"、social relevance assessmentに照らし合わせてしまえば、"非"になってしまうのだ。
"不適合"を指摘する方が、その場では"不適合"と見られてしまう。
コンビニのバイトで威張り腐るバカは、その外から見れば、本当に"バカ"だが、コンビニ(バイト)の中では"是"であり、絶対的な"神"である。
2000年代半ば、新日本プロレスは危機に陥っていた。
格闘技ブームに押され、観客動員が減り、武藤ら主力レスラーが他団体に去ったりした。
この時の新日の権力者はアントニオ猪木である。
その猪木が蝶野らに誘われ、リングで"討論会"をしたことがある。
猪木がまるでMCのように話を回して、レスラーの意見を促した。
ファンはこれを『踊る猪木御殿』と言っている。
半分ギャグのような事態なのだが、"アントニオ猪木"と言えば、誰もが知るプロレスラーであり、『燃える闘魂』であり、数々の"異種格闘技戦"(プロレス)で有名を馳せた"神"である。"アイコン"でもある。
新日本プロレスの中では、絶対的な"権力者"である。(当時)
俺達"外野"が『踊る猪木御殿だ(笑)』と言っていたそれ(討論会)も、蝶野ら所属レスラーからすれば、『権力者(紙)への反抗』であり、アントニオ猪木というレスラーへの"否定"とも受け取られかねない。
猪木を否定する事は、新日本プロレスを否定する事であり、新日本プロレスという"社会"から「不適合」とされかねない。
そんな事はなく、(むしろ数年後、猪木自身が"不適合"になり、"追放"に…)『猪木御殿』はいつもの「123ダァッー!」で締められた。
その時の新日内部では、猪木が"適合"であり、それ以外は"非"になる。
金💰のみを重視するブラック企業の姿勢は非(無し)だが、企業内部では是(あり)だ。
クライアントのワガママに応じまくる出版社は非だが、出版社内部では是だ。
それぞれの"社会"では非でも、また"別の社会"であるなら、是となる。
『social relevance assessment(社会的適合評価)』という心理動作において注意すべきなのは、その"social"(社会)が『何を示しているか?』、『どこまで通用するか?』が問題になる。
前回(プロレス心理学54)でいうなら、師匠から弟子への"指導"と同じだ。
「それじゃ、ダメだろ!😠」と怒る師匠だが、それは別の師弟からすればダメでもなんでも無かったりする。
だから、coachingが出来ない指導者は『ミスの指摘』という、より大きい枠組みの中(社会)で、"非"とされる事を指摘して、弟子を自分の"支配下"に置きたがる。
さらに、その業界(社会)を管理監督する組織(社会)に入り込み、自分が"是非"を決める"立場"身を置く。
そうしたら、その社会にいる限り、そこいる人間は、自分が"是"なら全て"是"とさせる事ができる。
しかし、それ自体が外からみたらなら、非である。"social relevance assessment(社会的適合評価)"からするなら、非でしかない。
それが分かっているから、"彼ら"は表に出たがらないのだろう(卑怯)
蝶野ら、新日のレスラーから詰め寄られた猪木は、"猪木御殿"で「お前ら、うるせぇ! 誰に物言ってんだ!💢」とは言えない。
そんな事を言えるのが、"新日本プロレス"という"社会"の中でしかない事を知っているからだ。
ここは、『所属選手からの怒りに応える"器の大きな"アントニオ猪木』を見せなくてはいけないのだ。
そうしないと、猪木の"神話"が薄れてしまう。
アントニオ猪木は神であり、新日本のレスラーの上にいなければならない"絶対的な存在"であるべきなのだ。
下からの突き上げに対し、無様に怒鳴るなどという"醜態"を見せられない。
神話が無くなってしまう。
"social relevance assessment(社会的適合評価)"は、自分の"権力✨"を示し、勢力を主張するのに非常に有効である。
「それ、人してどうなの?」
「それは会社として合っているか?」
「お前はそれで良いのか?」
そんな"適合判断"を訊いてくるバカがいる。
それを言い換えるのなら、
「それ、俺には都合悪いんだけど」
「俺がダメだと言ったら、会社もそうだろ」
「俺の言うことに従えや!」
である。
もし、自分の近くに"social relevance assessment(社会的適合評価)"をしてくる人間がいたら、注意すべきだ。
果たしてその"適合評価"は合っているのか?
(たまに合っているが…)
自分の判断基準は、自分で決めろ!
他人が是でも、自分が非なら、非だ。
他人に"social relevance assessment(社会的適合評価)"を任せるな。
自分を決めるのは、いつでも自分だ。