鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学63 "Q"の魔術

第一テレビの『世界の果てまで、イッてQ』が話題になっている。

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番組内の人気コーナー『宮川大輔のお祭り男』で、在りもしない外国の祭りを"でっち上げ"た、という記事が例の"文春"に載ったのだ。

番組に批判が集まり、打ち切りも検討されているらしい。

俺はこの番組を昔から観ているファンであり、大輔の『お祭り男』は大好きである。

そういった個人的な"心情"を無視しても、俺はこの報道、記事に非常に不満だ。

何故、そんな"つまらない"話になる?
お祭りが"やらせ"?

それがどうした?

『自転車橋渡り祭』
『チーズ転がし祭』

など、正直(本当にあるのか?)と思える祭もあった。

だが、あのコーナーの"重要"なポイントは、その祭が"あるか、どうか"ではなく、"世界にある祭を宮川大輔がいかにクリアするか?"ではないか?

別にその祭があろうが、なかろうが、ヤラセだろうが、何であろうが、大して困らない。
何故、あの祭がリアルか、フェイクか、で騒ぐ?

それが重要ではないだろう。

この話を観ると、俺はあるプロレスの"暴露本"を思い出した。

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ミスター高橋/『流血の魔術』

プロレスの"仕掛け"や"裏側"を暴露した本である。

これを読んだ時の俺の気持ちと、今回のイッてQのヤラセ報道を聞いた時の気持ちは極めて似ている。

そんなものを暴露して何になる?

言わずもがな、プロレスはショー👯である。

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レスラーは、"対戦"と言いながら、二人で試合を"演出"し、観客を興奮させていく。
レスラーの目的は、試合の勝利では無く、観客の熱狂であり、興奮である。

それは『イッてQ』のようなバラエティー番組と変わらない。

『流血の~』はレスラーがいかに観客を喜ばし、驚かす為の仕掛けをしているか、
…そして、プロレスラーが"協力"して試合を作っていることが書かれている。

しかし、こうしてわざわざ本📙にしなくても、プロレスを一度でも見たら、その"仕掛け"に気が付くはずだ。
人をロープに走らせても、キレイに反転してくるはずがない。
また、押さえ込まれてカウントを取られたら、ちょうど3カウントぎりぎりで跳ね返すのは、おかしい。

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(ミッキー・ローク主演"レスラー")

観れば分かる事を何故、わざわざ見せてくる?

プロレスやバラエティー番組の目的は、観る人間からの興奮である。

何より頭に来るのが、『嘘を付いていたのが、けしからん!』というsocial relevance assessmentは(社会的適合評価)だ。

確かに『イッてQ』も『プロレス』も、"魔術"(嘘)をオープンにしていない。

嘘をつくことはいけない事だ。
それは皆が分かっているし、反論の余地もない。

反論できないから、頭に来る。

「嘘だ、嘘だ、ヤラセだ!」と鬼の首を獲ったように騒ぐが、それで楽しいか?それで、その"嘘"から得ていた"興奮"に匹敵する"興奮"を得られるのか?

嘘を訂正して、魔術をバラしてどうなる?
得意になって、解き明かして意味があるか?

それがどうした?
何になる?

プロレスもテレビ番組も"エンターテイメント"だ。
エンターテイメントの判断基準は『面白いか?、面白ろくないか?』である。

社会的に正しくないから、是正し、嘘は訂正しなくてはならない。

エンターテイメントだろうが、何であろうが、嘘は嘘であり、批判されなくても仕方ないのだ。

プロレスラーは、流血する。
悪役レスラーが相手レスラーの額を凶器で刺す。
もちろん、"演技"だ。

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それは嘘であり、その理由は、観ている者の興奮を引き出す事である。

その"魔術"を暴露して喜ぶのは、魔術を嘘だと"思い込んで"、自分の正当性をひけらかす厄介な"正義の味方"だ。

それは社会的にみたら、正しい行為だ。

バラエティー番組の"嘘"を訂正する事は、"報道"という観点からしても、バラエティー番組と言えど、正しい行為である。

プロレスの仕掛けを暴露するのは、世間に嘘を付いているから、正しい。

だが、それは"思い込み"だ。
正しいが、迷惑な話だろう。

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誰かの正当性、正義は、社会的には完全に正しい。

だが、その思い込みを遂行したら、我々が得られていた興奮は、もう得られない。

世界のよく分からないお祭りでバカな事をしているバラエティー番組は、"不可"であり、

ショー👯であり、筋書きがある試合を見せるプロレスは、八百長であり、やはり"不可"だ。

ならば、興奮はてに入らない。

それで良いのか?

イッてQの"お祭り男"のお祭りが"存在しない"祭りでも、楽しければ良くないか?
そこが興奮するポイントではないのだから。
プロレスラーがロープに振られ、反転して返ってくることもまたポイントではないだろう。

それが正しい、と"思い込み"を押し付けて来ても、何が楽しいのか?

"楽しい"を基準としているのだから、そこを求める事に何の"不具合"があるのか?

『楽しいから、何をしても良いなどと云うわけではないぞ!』と誰かさんが指摘するかもしれない。

勿論、誰かを傷つけたりするのは間違っている。
そのsocial relevance assessmentは(社会的適合評価)には、納得できる。

しかし、『イッてQ』も『プロレス』も、その中に嘘が混じっていても、それほど問題はないだろう。
(かつては悩んでいた時期もあったが…)

こちらに実利外の損害がそれほどでも無いのに、何故その嘘をそれほど問題にす?
あれほど騒ぐ?

"興奮"を否定するのであれば、代わりに何を得られるのか?

そこまで考えているのか?

興奮を否定するなら、もう二度と興奮を得たいと思うな。
『あの番組、つまんねーな』などと思ってはいけない。
何故なら、つまらないのは、自分らがその魔術を否定したからだ。

"魔術"を否定したら、興奮や楽しみは得られない。

ならば、アナタはどうする?