会社(地方出版社)をクビになり、不甲斐ない日々を送っていた時に、たまたま幼なじみに再会した。
中学卒業いらい14年振りの再会だった。
自宅は近所なのだが(その時、幼なじみは浜松を離れていたが…)、高校入学以来一度も会っていなかった。
俺としては、解雇され無職であり、日雇いでどうにか凌いでいる状態を隠す事に精一杯だった。
しかし、幼なじみは突然、
「あの時はすまん!」
と誤って来た。
何の話かと思ったが、それは中学生の時…、
学校の廊下で俺達はふざけていた。
廊下に壊れかけのロッカーがあり、そこに誰かを入れて、みんなで外からバンバン叩く、という子供染みた遊びをしていた。
その時、怖い先生がその騒ぎに怒った。
たまたまロッカーにいたのは、俺であり、幼なじみは逃げたのだ。
その事を謝ったのだ。
……正直、忘れていた。
(そんな事もあったなぁ)という程の記憶しかない。
俺としては、小学生の時にモデルガンで眉間を射たれた事を謝って欲しかったが、そちらは忘れていた(笑)
俺は少し感動した。
この幼なじみは、そんな些細な事をずっと気にかけてくれていたのか?
なんと繊細で優しい男なのか?
…こちらはすっかり忘れていたのに。
この幼なじみは、昔の事を忘れず大切にしていてくれる気持ちを持った暖かい人間である。
人が何を覚えていようが、忘れていようが自由だ。
俺は"ロッカーの一件"など何の感情も持っていなかったが、幼なじみからしたら、『謝りたい中学生の頃の過ち』だったのだろう。
幼なじみは、俺が今もこの事で怒っていると思っていたらしい。
完全な"思い込み"である。
人が他人にいかなる印象を抱くのか、抱かないのかは自由だ。その人の勝手だ。
ならば、出来るだけ"良く"思われたい。
『カッコいい』
『優しい』
『男らしい』
そんなイメージを抱いて欲しい。
だが、他人は必ずしもそんな都合の良いイメージを抱いてはくれない。
俺が嫌う"礼儀"なんかがそうだ。
どんなに温和で優しい挨拶をしても、その他人が本当にそんな人だとは限らない。
礼儀は正しいが、他人を何とも思わないとんでもない奴かもしれない。
それは、他人に対して"礼儀正しい人"、"真面目な人間"という自分の印象を抱いて欲しいからだ。
本当は、そんな人間かどうかなどは分からないが、とにかく"そういう人"だと思って欲しい。
だから、俺は礼儀正しい人間が嫌いだ。
俺からすると、"嘘を付いている"気がするのだ。
たまに、SNSをやっている若者を批判する年配の方がいる。
「あんなもので自分を偽るな!」
「SNSなんて、嘘ばかりだろ?」
確かにSNSなどに載せられている"自分"は、偽りの、飾られた"自分"かもしれない。(俺も?)
そこにあるのはやはり、『良く思われたい』、『素敵な人間と思われたい』という気持ちだ。
それは礼儀や挨拶と何が違うのか?
礼儀正しい人間やきっちり挨拶する人間が、必ずしも印象通りの人間では無いように、
SNSで語られる人間が、その通りの人間であるはずがない。
どこが違うのか?
「SNSなんか、やるな!」という年配者は、自分らに失礼で礼儀を欠いた若者に対して怒ることは出来ない。
何故なら、礼儀正しいからといってそれが本当のその人間の気質かどうかは分からないからだ。
礼儀を強要する人間は、「嘘を付け!」と言っているのに等しい。
そんな礼儀や挨拶などをされて満足か?
きちんと挨拶したその人間は、心の内で"舌を出して"いるかもしれない。
そんな"嘘"を付かれて嬉しいのか?
(馬鹿は嬉しいんだろうが…)
他人が心の底で何を考えているかは、分からない。
そして、何を思っているかは、自由だ。
どんな風に"思い込んで"いるかも、自由だ。
先の幼なじみのように、俺が中学生の頃の"出来事"を今でも『怒っている』と思い込んでいても、それは幼なじみの自由である。
だが、その思い込みが必ず当たっているとは限らない。
事実、俺は忘れていた。
根に持つタイプだが、その事は全く気にしていなかった。
思い込みは自由である。
また、思い込まないのも自由だ。
他人が自分の"思い込み通り"の人間でなくても、それは仕方がない。
それは他人の勝手だ。
たまに、それに怒る馬鹿がいる。
他人が、自分の思った通りではないと起こりだす奴がいる。
何故、他人が他人の思った通りにならないと怒るのか?
『○○ではないといけない』
『○○はもう○○だ』
それは"思い込み"を過ぎて、"決め付け"である。
何故、人は決め付けをするのか?
俺は、プロレスが「八百長」と言われるのが、嫌でUWF(Uインター)にハマった。
雑誌で見るそれは、"真剣勝負"に見えた。
そのUインターも"プロレス"であった。
映像(ビデオ)で観るそれは、"プロレス"の臭いがした。
それは真剣勝負ではなく、『真剣勝負っぽく見えるプロレス』だった。
『Uインターは真剣勝負のプロレスをしている!』
は、俺の思い込みでしかなかった。
だが、それがプロレスであっても問題が無かった。
…薄々気付いていたのもあるが、Uインターがプロレスであっても、それはそれで楽しめたからだ。
Uインター(UWF)がプロレスだと分かると、怒って離れていったファンもいたらしい。
その気持ちもよく分かる。
「プロレスなんて、八百長だろ?」
そんな声に対して"違う!"と反対したいところだが、実際のプロレスを見れば、否定はし辛い。
(ミッキー・ローク主演"レスラー")
これは物凄い"ストレス"だ。誰でも自分の好きなものを馬鹿にされたくはない。
そんな時に現れたのが、"真剣勝負"のプロレス(に見えた)UWFだ。
だから、皆信じた。
UWFは真剣勝負だ、と。
UWFは実力勝負の"リアルファイト"だ、と。
それが違っていた。
ファンの勝手な"思い込み"だ。確かにUWF側は一度も「我々は真剣勝負をしている」とは言っていない。
だから、"プロレス"だったとしても別にUWF(Uインター)のレスラーに怒るのはおかしい。
だが、怒る。
それはUWFは真剣勝負でなくてはならず、UWFは完全なリアルファイトではなくてはならない。
だから、怒るのだ。
それは理想ではなく、幻想でもなく、"事実"でなくてはならないである。
自分の信じた"事実"は、必ず真実ではないといけない。
思い込みは、思い込み続けると、"決め付け"になる、と思う。
そう"決まって"いるから、疑う余地は無く、疑われる事も無い。
…はずであった。
それが違うから、怒るのだ。
それ(UWFがプロレスだった事)は、"裏切り"である。
裏切られたなら、裏切った方(UWF)が悪いのである。
だから、怒るのだ。
これは、他人が自分の思った通りでないと怒る馬鹿と同じでは?
思い込みは誰もがする、される。
俺もするし、される。
人の思考が自由である以上、それは仕方ない。
人は思い込みをして生きている。
だが、"決め付け"は違う。
決め付けは『そうである』という"固定概念"でしかない。
世の中に固定された事は無い。
絶対はないのだ。
決め付けなど、意味は無い。
なぜなら、決め付けは"決め付け"られないからだ。
思い込みは自由だし、決め付けも自由だ。
しかし、決め付けは危険だ。
そうではない可能性があるからだ。
決め付けが、"決め付け通り"では無かった時、その他人を勝手に"裏切り者"にしてしまう。
決め付けられた人間からすれば、別に裏切った覚えなどはない。
勝手に決め付けられ、勝手に裏切られたと思われただけだ。
"裏切られた人間"は、誰に"裏切られている"のか?
それは自分自身だ。
信じていたい自分に"裏切られている"のだ。
"自分の思った通りにならない"他人は、自分はそう決め付けているだけだ。
他人は常に自分の思い通りにならない。何故なら、他人はアナタなど気にしていないからだ。
他人は常にいる。そこにいる。
自分の思いなど無関係に、考慮もせずにいる。
そんな他人の行動、思惑を見て騒ぎ、自分自身を傷付けている自分は、哀しくはないだろうか?
他人の行動を制限し、自分の思惑の内に入れたいアナタは、随分と傷付けている。
他人を制限することは、自分を"攻撃"する事に違いない。
ならば、他人など放っておけば良い。
プロレスが"真剣勝負"だろうと、"八百長"だろうと、それは自分とは関係無い。
信じたものが違っていようが、違っていなくても、意味はない。
"そうでなくてはならない"と決め付けても、"そうではない"事はある。
必ずある。
アナタや俺の考えとは関係無く、あるのだ。
それを否定できない。
誰もアナタを"裏切っていない"し、誰もアナタの"決め付け通りにはならない"。
残念ながら…。