橋本大地というプロレスラーをご存知だろうか。
橋本真也(故人)の長男である。
デビューした頃は、線が細く、『ジュニア(ヘビー級)?』と思っていたが、最近見るとウエイトも増え、亡くなったお父さん(橋本真也)に風貌が似てきた。
必殺技も“ライジングDDT”と、亡き破壊王を彷彿とさせる技。
これこらが楽しみなプロレスラーだ。
だが、そんな橋本大地の所属団体は、お父さんが活躍した新日本プロレスではなく、今はデスマッチ系の大日本プロレスだ。(大地くん自身はデスマッチ未経験?…)
『破壊王』『ミスターIWGP』『爆殺シューター』と言われ、新日本“黄金時代”のスター⭐である橋本真也の息子が何故、インディ(?)団体で戦っているのか。
それは、2000年代初頭の新日本プロレスの混乱が大きく関わっている、と俺は思っている。
新日の“黄金期”は92~96年がピーク、97~01年が混乱期、02~05年が低迷期であり、日本マット界は格闘技(K-1、PRIDE)に押され、次第に“冬の時代❄️”になっていく。(と俺は思う)この97~05年は、新日を含めたプロレス界は残念な話が多かった。
俺はその最大の被害者が橋本真也だと思っている。
全ての始まりは、長州力が87年に新日本にUターンした事に始まる。
他のレスラーと新日本プロレスを飛び出し、ジャパンプロレスとして、全日本プロレスに参戦していた長州力は、突如、古巣の新日にUターンした。
これに反感を抱いたのが、若手だった橋本真也(84年入門)である。
性格的に長州と合わなかったのもあるだろう。
(…うるせえ、奴が戻ってきたな。勝手に出ていったくせに💢)と長州らに思ったらしい。
さらに、これは俺の予想だが、橋本は元から長州が嫌いだったのではないか?
橋本入門当時の新日“道場”には2つのグループ(派閥)があった。
長州を含む“燻り派閥”(後の維新軍=ジャパンプロレス)と、同じく新日本を飛び出す藤原、前田、高田らの“若手”派閥(後のUWF)である。
新人の橋本は、この藤原、前田、高田と仲が良かったのでは、と俺は推察している。
高田の自伝で橋本を「(橋本)を“伴宙太”とあだ名で呼んでいた」という記述がある。
橋本と長州は元来、距離があったのでは?
その長州は前田ら“UWF”(藤原・前田派閥)が嫌いであり、その“藤原・前田派閥”だった橋本は、元からそんな長州とソリが合わなかったのではないか?
(橋本はUWFには行かなかったが…)
橋本と長州には元々溝があったのだ。 橋本からしたら、戻ってきた長州はジャパンプロレス勢に(何だよ、勝手出ていったくせに、アイツら、また戻ってきやがって💢)と思っていたのではないか?
89年、新日本にUターンしていたそんな長州に幸運が舞い降りる。
新日本プロレスの総帥、アントニオ猪木が参議院選挙に出るため、新日本の社長を退いたのである。
年老いた猪木、藤波辰爾&長州(名勝負数え歌)では新日はかつての勢いを盛り返せなかった。
そこで、総帥アントニオ猪木が事実上の“勇退”(政界進出)したのだ。
新しい社長は、副社長だった坂口征夫。
そして、長州は、“現場監督”に就任する。(俺達の時代?)
アントニオ猪木という“足枷”が消え(いろいろやらかしたからなぁ)、新日本プロレスは長州が実権を握る。つまり、“長州政権”が生まれる。
運営は坂口。
興行などの直接的な指導は長州、となる。
この“坂口・長州”路線が、新日本プロレス90年代の“黄金時代”を作ることになる。
長州力はプロレスラーとしではなく、現場監督(プロデューサー)長州として新日マットを牛耳る。
…この時期、橋本らは海外遠征中だった。
そして帰国すると、武藤敬司、蝶野正洋らと闘魂三銃士を結成、長州らと“世代闘争”を開始。
さらに橋本は、格闘技路線やWARの天龍源一郎らと死闘を演じ、人気レスラーになる。新日本プロレス自体も次第に隆盛を迎える。黄金期がやってくる。
俺はこのブログで度々と長州力を『卑怯者』『腰抜け』『わがまま』と非難しているが、長州の“プロデュース能力”はかなり評価している。
闘魂三銃士(橋本、武藤、蝶野)、G-1、ベストオブスーパージュニア…など“複数スター制”(@GK)を敷いて、アントニオ猪木のいない新日本に再び興隆に導いて見せたからだ。
坂口は、一時的だが新日本と全日の交流をも実現させている。猪木には無理だった事なのに。
そして、長州の出すインパクトのあるマッチメイクは多くの観客を興奮させた。
俺がプロレスファンになっていったのもこの頃。
“全日ファン”だったが、新日の事はもちろん観ていた。(その後、UWFインター、“高田信者”へと変わる…)
この頃の新日は面白かった😃💕
その最たるものが、あの“95年、10.9”(新日本vsUインター 団体対抗戦)だ。
当時、バリバリの“UWF信者”になっていた(?)俺が、“幻想”から解き放たれた、あの大会。
この時のメインの武藤敬司vs高田延彦は、“高田信者”の俺には悔しかったが、歴史に残る名勝負だった。
というより、武藤敬司という天才レスラー🌠の実力が証明された試合だ。
武藤の『ドラコンスクリュー⇒足4の字固め』という発想は凄い。本当に凄い。
あれがフィニッシュになるなど誰が予想できたか。その発想力とひらめき😃💡
本当に凄い⤴️⤴️と思う。
高田信者だった俺は、当時、古典的なプロレス技でフィニッシュした武藤に嫌悪感があったが(これもおかしいが…)、今となれば、この結果に改めて感心する。
…その後、団体を2つと潰してしまう武藤だが、プロレスラーとしての彼は、まさに天才だ。
一方、橋本真也の対戦相手は中野龍雄(現、巽雄)という少し“格下”のレスラー。
長州の“現場監督”体制で、新日の象徴IWGP王者になっていた橋本だったが、Uインターとの対抗戦を含め、目立ったのは、長州が信頼していた武藤敬司だった。
IWGPヘビーの王位も対抗戦前に武藤に渡っている。そして、武藤は高田と歴史的な一戦を行い、自分(橋本)は格下レスラーとの試合…。
この一連の扱いに、橋本はかなり不満💢を持ったのではないか。
橋本には新日“トップ”としてのプライドが育っていたのでは?
(…なんで、武藤なんだよ💢 ここは俺だろ!)と思ってもおかしくはない。
結果としては、武藤が新日本(IWGP王者)代表として、高田と戦ったメインは大正解だった、と思う。
もし、橋本-高田が10.9のメインだったら、あんな名勝負にはなっていない気もする。
(その後、橋本は高田と戦うが、あのインパクトは越えられず…)
度々と書いてているが、『プロレスはショー👯♀️』である。戦いの結末は予め決められていて、リング上のレスラーは2人で協力して、観客を沸かす為に技を繰り出す(と思う)。
それは、通常の試合だろうが、団体対抗戦だろうが変わりはない。
“あの名勝負”もそうした“プロレス”に他ならない。(と思う)
だから、プロレスにおけるベルト(王座)はかならずしも“=肉体的な強さ”にはならない。
プロレスラーとして『客を呼べる』『興奮を引き出す』者が王者である。“舞台装置”の一つである。
現場監督長州力の中の評価は、橋本より武藤が高かったのだ。だから、武藤にベルト(IWGP)を任せ、対抗戦のメインを任せたのだ。
強いて言えば、長州“監督”は武藤を『新日本の中で一番客を呼べるレスラー』と認めていたのだろう。
長州は橋本を認めていなかったわけではないが、大事な興行(10・9)には武藤を選んだ。スクリプト(筋書き)を書いているのが、現場監督の長州ならば、やはり長州は橋本よりもを武藤を選んだ。
もっと付け加えるならば…
本来、長州“監督”としたら、新日のエースには自身がスカウトし、育てた馳浩を据えたかったのではないか。おそらくだが長州の中で、次世代を担う若手(だった)『三銃士+馳、健介』の評価は、
武藤◯
蝶野△
橋本❌
馳◎
健介△
…だったのではないか?
通常ならば、ジャパン(プロレス)からの愛弟子、馳浩が長州の“お気に入り”だが、その馳はUインターとの対抗戦が始まった頃には姿を現さなくなり、WCWのベルトを獲得してから、“消えて”しまう。
そして、参議院選挙に出て国会議員になった。
俺の思うに、この以前からもう馳は長州の“手綱”から離れ出したのではないか?
つまり、馳は独自の動きを見せて、議員になってしまったのだ。長州のコントロールから離れたのではないか?(…評判もあまり良くなかったか?)
それで長州は仕方なく、“複数スター制”を採用、大事な試合には、“まだ自分に近い”武藤を“推す”事にした。“直弟子”の佐々木健介はまだまだ若く、若手グループの中では目立っていなかったからだ。(評判は悪かった)
元来、仲の悪い橋本↔️長州の関係はこれでかなり嫌悪になったのではないか?
さらに長州がいけないのが、翌年(96年)の新日本最強決定戦『G-1』を長州自身が優勝“してしまった”ことだ。
これは橋本からしたら、相当つまらない話だろう。
新日の現場監督である長州が、プロレス(興行)のスクリプト(筋書き)を書き、自分が勝つようにしてしまったのだ。
ちなみに、長州は第1回大会(91年)は全敗している。それがこの年、全勝優勝…。
当時、俺はこの『長州優勝』(しかも全勝)はかなりおかしな感じを抱いたのを覚えている。前年にUインターと対抗戦をして『何故、ここでベテランの長州が優勝?』と思った。普通、武藤ら中堅実力派レスラーが優勝だろ?(次の流れを作るなら、橋本優勝でもおかしくはなかったが…)
これで長州と橋本の仲は完全に拗れた。(と俺は睨んでいる)
橋本真也からしたら、『コイツ(長州))の下では、俺はもうレスラーとしてトップとして陽の目を当ててもらえないな…💢』と思ってもおかしくない。
橋本自身は、間違いなく新日本内外で“トップ”を張れるレスラーにも関わらず、である。
新日本プロレス内に、次第に“嫌な空気”が溜まり出す。
さらなる混乱をもたらしたのが、アントニオ猪木の新日本介入だ。
94年に引退興行『イノキ・カウントダウン7番勝負』(ムタ→ルスカ→ゴルドー→藤原→ベイダー→ウィリー→佐山)を行いつつ、猪木は好調な新日に介入し始める。
猪木は、95年の4月に北朝鮮でプロレス興行を強行したりする。(“10.9”はこの赤字経費の穴埋め、と言われている)
そして、7月の参議院選挙で馳は当選したが、猪木は落選(…高田も)
猪木は新日の会長として“やりたい放題”だった。(確か、大株主?)
折しも“グレイシー柔術”などの格闘技ブームが見え始めた頃だ。猪木からしたら「格闘技なら、俺だろ?」と言いたかったのだろう。新日本の株主でもあり、さらに積極的に“現場”に介入しようとする。
現場を仕切る長州(と坂口)に、このアントニオ猪木の介入は相当、厄介だったのだろう。
ただでさえ、北朝鮮興行などで負債をかけた猪木が、議員がダメになると、やたらと現場に口を出そうとするのだ。
97年、猪木は“UFO”(世界格闘技連合)を作り、柔道界から小川直也を引っ張りこみ、いつの間にか橋本と戦わせた(4月)
新日本の混乱期の始まりだ。
“NWO旋風”の中、98年4月、猪木は引退興行を行う。
ちなみに長州は、この年の1月に“1度め”の引退をする。まるで猪木に抗議するような引退だった。
猪木主導(?)の、UFO、小川、vs橋本戦はかなり唐突な感じがした。いきなり決まり、凄い流れで行われた印象がある。猪木の強引な“圧力”があったのではないか?
猪木は“格闘技”、“小川”という“カード”で新日本に介入しようとして、長州はこれに抗った。
その猪木が目を付けたのが、新日のトップレスラーで“反”長州の橋本だったのだ。
プロレスは“闘い”だ。レスラー同士が“分かり合って”闘う“ショー”だ。橋本vs小川は、そうしたプロレスであるなら、橋本は『小川と闘う事』を“了承”しなければ、成り立っていないはずだ。
この頃の新日本内部は、猪木(UFO)vs長州(+坂口)という“暗闘”が行われていた。(小川と坂口の喧嘩とかあったなぁ)
外では、MMA(総合格闘技)やK-1の脅威がプロレス界を脅かし、まさに内患外憂だった。
新日本は、インディ(大日本)や大仁田を上げたり、長州が復帰し、小川と大喧嘩したりしていた…。
97年~2001年はまさに混乱期だった。
大学生になった俺も次第にK-1や総合格闘技(PRIDE)の方に心ひかれていく。
この中で、橋本は長州側に加わらなかったのはもちろん、猪木側には与しなかった。
プロレスを始めた理由が、猪木に憧れたからである橋本だが、何故、猪木と組み、“対小川(UFO)”というスクリプトに“乗り切らなかった”のか?(橋本は小川と都合3度も闘うことになるが…)
2000年4月、橋本は引退を賭けて小川と闘っている。(テレビ朝日『生中継 橋本真也34才、小川に負けたら即引退スペシャル』)
猪木に“付き合う”が、橋本は、“新日内の喧嘩(主導権争い)”に翻弄される。
それはやはり橋本がどちらにも加わらなかった証拠だろう。
橋本からしたら、もうどの“グループ”にも入りたくなかったのではないか?
長州は嫌い(性格的に…)
猪木は面倒(憧れはあったが…)
橋本は“自立”したかったのではないか?
もう、猪木、長州という“過去”の人間に“プロレス”を任せたくなかったのではないか。己のプロレスにしたかったのでは?
『もう、俺の時代だろ?』と思っていたのでは?
橋本はこれに対し、2000年10月、団体内組織『ZERO-ONE』を立ち上げる。
そして橋本は、翌月に新日本をクビになる。
(続く)