大学生の頃、よく飲み会をした。
先輩、同級生、後輩。
いろんな人らと、酒を酌み交わした。悪い記憶は無い。
そんな飲み会の翌日だ。
一緒にその会にいた同級生が怒っていた。
話を聞くと、昨日一緒に飲んでいた後輩の「態度が気にくわない」という。
その理由をさらに聞くと、同級生が注文した料理を勧めたら、その後輩が「…別にいいっす」と断った、という、俺からすれば取るに足らない話だった。
しかし、怒れる同級生はそうは思わないらしい。
「…俺にあんな態度を取るなんてありえへん(怒) きっとアイツは俺を舐めている。いや、いつか俺たちを追い落とす気や!」
と、何故か連想ゲームのように、その後輩の"断り"を大事件のように言い張った。
「んなわけねぇだろ?」と相手にしなかったが、今、世間を騒がしている日馬富士の暴行疑惑もそんなところに起因があるのでは?
人は他人を『自分の後輩』と認識すると、途端にその人物に対して横柄になる。
"部下"ってやつもだ。
"日馬富士-貴の岩"の場合は『モンゴル』という縛りか?
『自分の(モンゴルの)後輩だから、俺の言うことを聞くはずだ。いや、聞かなければならない』という、"驕り"。
確かに貴の岩関は日馬富士から見たら、態度が悪く見えたのかもしれない。
普段の態度に反抗的なものがあったのかも?
先輩をバカにしているような態度をとったのかも?
だが、他者が必ずしも自身の意図通りの言動、態度を取るとは限らない。
「後輩なんだから…」が、必ず通用するとは限らないではないか?
だが、人は思い込む。
『コイツは俺の"下"。だから、俺には絶対逆らわない』
と、勝手に思い込む。そんな約束、したわけでもないのに、"向こう"から来ただけで、そう思い込む。
いや、『思い込みたい』のだ。
他人を自分がコントロールする、優越感。
先輩後輩は、それが一番簡単に他人をコントロールできる"ツール"だ。
本当は他人などコントロールはできない。
基本的に他人が何をしようが、やろうが、言おうが、規制はできない。
それを分かっているから、先輩後輩などや"組織"にはめる。
一度、その"カタ"に入れられたら、言うことを聞かざる得ない"感じ"になるからだ。
だが、そうならない奴がたまにいる。
"上"を敬わない奴がたまに、現れる。
「先輩? だから?」
ていう奴。
先輩後輩という、"組織構造"に馴れている人間からすれば、かなりイヤな奴だ。
自分の"先輩"が通じないからだ。
だから、今度は暴力だ。
力でダメージを与え、威を示す。
『俺は先輩なんだぞ』というわけだ。
下らない。
だが、この"下らなさ"もまた、俺自身にもあるのだ。
やはり、自分のコントロール出来る他者、現実が欲しい。
先輩、上司はうるさい。
俺の、俺だけの、俺の為の"現実"が欲しい。
それは、残念だが"幻想"だ。
他者をコントロール出来る、という幻想。
日馬富士もそんな幻想を見ていたのでは?