人間が、他人の行動、考え、発言を拘束し、自身の支配下に置きたくなり、"小さなグループ"を作りたくなるのは、何故か?
こうした他人に対する規制や"決めつけ"の強要を
『自己(自発的)ユーティリティ』
と呼ぶ。
"ユーティリティ"とは、サッカーなどで複数のポジションができる選手を『ユーティリティ性が高い』などというように、複数の技術や価値観を持ち得る事を好意的表した言葉だが、
『自己』がつくと、社会的には『自身の気持ちに寄り添える他人の共通化』に他ならない。
要するに、自分が『可』から他人も『可』であり、自分が『否』なら、また他人も『否』と思ってもらわないと気がすまないのである。
己の意識や思考、好悪の感情が他人と同じであるべきだ、と考える事だ。
これが"小さなグループ"を作りたがる理由だ。
何度も書いているが、人間の行動、思想、言行は自由だ。
他人から強要されるのはおかしい。
つまり、他人が『きっと、こう思っているはず』、他人が『こうすれば、大丈夫なはず』は、全て"幻想"だ。
他人幻想(ストレンジャーズ・イリュージョン)だ。
だが、社会においてはその他人を慮り、他人の意見、意向、言動に、自分のそれを会わせなくてはならない。
"幻想"を生きなくてはいけない事が多い。
他人は自分の思った通りの意見や考え、行動をしなくてはならず、
他人は自由などなく、あってもそれは『自分が認める範囲』での"自由"であり、それ以外は認めない。
何故か?
そうするのが、自分も他人にと有益であると思うからだ。
自分に従えば、他人も自分も損をすることは無く、皆、幸福(精神的にも、物質的にも)である。
だから、自分の"範囲"から離れたり、自分を攻撃してくる連中を理解できない。
裏切り者は全て不幸であり、
批判者は全て愚か者でしかない。
…そんな事は全く無いのだが、そうでなくては、他人にユーティリティ性を求める事ができない。
他人らは自分の為にあり、また自分は他人の為にある。
そこに過不足はなく、真実も正義も自分にある。
全て"幻想"であり、そんなことはまず有り得ない。
ただ、共通認識としての"幸福"はある。
『収入』『名誉』などがそれか?
これを、云うならば"餌"にして、他人臣従を狙うのが"自己ユーティリティ"の高い人間の気質である。
また、自己ユーティリティの高い人間にとって、他人は2分類しかない。
自分にとって、『敵か、味方か』のみである。
他人は常に自身を攻撃してくるか、従うか、しかない。
攻撃される前に攻撃して、従わせる。
それしか人間関係を結ぶ方法を知らないのである。
…悲しい人間である。
また、それゆえに"未知"の人間を嫌うのである。
その人が自らにとって、敵か、味方かわからないからである。
自分の知っている、自分を一番に考えてくれている人間たちの中で威を張りたがる。
"独善的"とは、このことであり、"独り善がり"である。
…悲しいかな。
そんな我々(俺もね…)、またそんな自己ユーティリティがある。
俺はかなりの"癇癪持ち😱"だ。
他人の言動に絶えずイライラ😡⚡している困った奴だ。
今までも他人にその癇癪を破裂させてしまった事が何度もある。
だか、不思議と後悔は無い。
"怒り"の吐露は極めて当然な事ではないか?
俺が同級生の影響で、深夜の全日本プロレス中継を見始めた頃、ハンセンは小橋にブチキレていた。
…羨ましいかった。まさに『うるせぇ、馬鹿野郎!』だ。
大声で怒鳴り散らし、丸太のような腕から繰り出すラリアットで薙ぎ倒す。
素晴らしい。
暴君だが、その暴君こそが俺がしたいことでもあった。
前回も書いたが、相当に鬱屈した中高生だった俺は、大声で怒鳴り散らし、暴れ回るプロレスラーに憧れた。
あんなに自分の思った事を怒鳴れる人生はどんなに愉快だろうか?
社会に出たら、学校のような、小さなコミュニティから抜け出せたら、何のしがらみも無く俺は怒鳴りまくろう、と。
そして、判る。
社会に出たら、いや、その前からかもしれないが、他人に怒鳴り散らすことなど不可能に近い。本音を隠して、ひたすらに忍従する日々だ。
(他人が自分の思った通りの人間でいて欲しい)、と自己ユーティリティを持ち、ハンセンのように周囲に怒鳴り散らし、怒りまくる。
そんな事は、社会では絶対にできない。
よくよく考えたら、悪"役"レスラーが暴行容疑で捕まった、など聞いた事が無い。
当たり前だ。
あれは"役"だ。役として怒鳴り散らし、役として暴れ回っているのだ。
ハンセンはリングを降りたら、極めて紳士的な人間であると聞いた事がある…。
社会に出てから、俺は散々と威張りまくり、パワハラをするクソのような人間を見てきた。
彼らの基本的な"理論"は、
『俺の言うことを聞け』
『俺の命令に従え』
『俺は偉い』
などであり、"二言目"には「そうしておけば、みんな幸せ」などとフザけた事をぬかす。
"他人は自身と同じである"という、自己ユーティリティが高いのだ。
そんなクソどもに共通性がある。
皆、自分が威張り散らす"範囲"をしっかりと守っているのだ。
自分の意のままにならない社員をクビにする社長。
自分の課内でしか怒鳴らない課長。
親しい友人の間にしかワガママを言わない男。
いつも決まった同僚としか飲みに行かない男。
普段は大人しいが、ある作業グループに入ると途端にグズグズ言い出す後輩。
みんな分かっていたのだ。
自分の"ユーティリティ"性が効く範囲を。"小さなグループ"を。
だから、その範囲内では"暴君"だが、その範囲外では、極めて"普通"である。
いや、普通以下かもしれない。
彼らにとって、その"小さなグループ"は自分を守る鎧であり、生き甲斐であり、避難場所かもしれない。
どこかの大学のアメフト部の元監督を見れば、よくわかるよな。
己の"権力"が可能な範囲に限り"傍若無人"に暴れる人間は、範囲外からの攻撃に弱い。
そこに自分の力が及ばないからだ。
なんと狡猾なのか?
なんと狭量な器か?
なんと悲しい人間か?
だが、それは俺もであるし、社会に出たらほとんどがそうだ。
頭に来たからといって、いちいち"ウエスタンラリアット"(ハンセンの必殺技)していたら、たちまち嫌われるか、暴行容疑でパクられる。
どうすれば、自己ユーティリティの高い人間をかわし、また自身の自己ユーティリティを上げないように生きていけるのか?
この問題に関して、考えていこう。