鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学46 社会とは?

俺が社会という、この掴み所の無いものを意識し出したのは、ブラック企業の部長がよく言っていた「君らは社会人として…」という言葉からである。

子供の頃、同級生や周囲から理不尽な事を言いがかりを付けられると、

(アイツはまだ"子供"だからな…)

と、勝手に思った。(自分も子供のくせに…)

アイツらも大人になる。社会に出る。

それは、自分を知り、周りを知り、他者との関係性が円滑になるということに違いないと思っていた。
20才になり、"社会人"の仲間入りする頃には、アイツも理不尽な事をしない立派な社会人になっているはずた。

そう思っていた。
社会人とは、『社会でやっていけるだけの経験、知識を持った人間なのだ。

しかし、実際に社会に出たらどうか?

他人にすり寄り、他人を支配し、子供のままのワガママを吐く奴がほとんどだ。
理不尽さは子供の頃の比ではなく、権力や組織的な力を使い圧力をかけてくる。

子供の頃よりタチが悪い奴が多くなった気がする。

これはどうしたものか?
話が違うではないか?

そして、そんな奴らに俺はそんな奴らに平身低頭しいる。

ならば、認識を考え直さないといけない。
『人は経験、知識を得て、正しい社会人になる』のではなく、『人は経験、知識を得ても社会人にはならない』、もしくは『社会人という存在自体が曖昧であり、それを定義する事は不可能』ではないか?

ブラック企業の部長が言っていたように、『人は元来、自堕落でワガママで狡猾であり、"性悪"な生き物なのだ』

俺が再就職した地元の出版社は確かに"ワガママ"で"狡猾"な人間ばかりだった。

しかし、それか会社に悪い影響ばかりを与えているわけではない。
グズグスと子供のような要求をしながらも、対外的には皆、"できる"営業だった。
俺にいつもパワハラしてきた部長など、女が腐ったような性格であったが、営業成績はかなり良かった。

パワハラする人間は最低である。
組織内の力関係を使って、無理難題を言ったり、八つ当たりをしてくる奴は『死んでしまえ!」と、本気で思っている。

パワハラをする人間はおかしい。間違っている。

「人としておかしい」(social relevance assessment"社会的適合評価")のは間違いなくパワハラを仕掛けてくる奴らだ。

しかし、その反面…。
そんな奴らの庇護の元、正社員採用された俺は、彼らの悪態を吐く権利はない…。
営業の皆さんが居なければ、社内での俺の立場など無いからだ。
いくら、パワハラや愚痴が嫌いでも、我慢しなければならない。

そう考えると、
「(社会)人としておかしい」という問いかけ(social relevance assessment"社会的適合評価")という事を『おかしい』と思う、俺こそが"おかしい"のではないか?

社会は元々"おかしい"のだ。
適合している人間など1人としていない。
ワガママで、狡猾な人間がのさばるのが社会であり、彼らの言う「(社会)人としておかしいくないか?」(social relevance assessment)という問は、

『俺(たち)の思った通りになれ!』

という強制であり、それは別に悪い事ではない。(犯罪でない限り)
そんな社会に適合しえない自分がおかしいのではないか?

前職のブラック企業の例で言えば、残業代無しの長時間勤務は、俺達"労働者側"から見たら"悪"だが、
給料を払う"会社側"から見たら、人件費を抑える『画期的』な経営判断に違いない。

見方、捉え方により、パワハラパワハラではなくなるのだ。

その社会に合わせる事が出来るか、出来ないか、の問題ではないか?

以前、武藤敬司はプロレスは「社会の縮図だ」と言った。

大いに納得できる言葉だ。

本来の実力、身体的な強弱はプロレスのリングには関係ない。

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"社会的"な強さと、"プロレス"の強さはどこか似ている。

社会的な強さは、社会的な繋がりや人望や利益などによる。

プロレスの強さは、観客の支持による。

多くの人間に利益をもたらす人間は、力を持つ。理不尽も、独り善がりも通る。
それが社会だ。

多くの観客を興奮させる力を持つレスラーは強い。弱くても、非力でも、それは強さだ。
それがプロレスだ。

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「社会人としておかしい」という問いかけ(social relevance assessment"社会的適合評価")もいわば、他人をその"社会の縮図"に嵌め込もうとする"詐欺的な"やり方に他ならない。

だが、その"縮図"に入らない限り、利益を得られないのも事実だ。

社会はそこから逸脱する者に冷たい。
自分のコントロールにならない人間を徹底的に嫌う。排除する。


俺が正社員に昇格して半年後、いわゆる"サブプライムローン"問題が起こり、我が地元・浜松の地域経済を直撃した。
自動車産業の多い浜松の企業は、アメリカの景気減退の影響をモロに受けて、急速に不景気に陥った。
地元企業の多くをクライアントに持つ俺のいた地方出版社などたちまち掲載依頼が減った。
広告ページ数の減少はそのまま、我々社員の給料を直撃する。
会社内では事務所の閉鎖や、人員整理が始まっていた。

そんな中、俺は呑気に構えていた。
特にこの会社に貢献しているわけでも無いのに、何故か、(俺は大丈夫だろう)と思い込んでいた。

思い込みは"魔力"だ。

まさか、自分が"リストラ"の対象になるとは思えなかった。
今から思えば、対象になる要素が存分にあるのだが、俺は根拠の無い自信を持っていた。

そんな俺に待っていたのは、紙切れ1枚の"解雇予告状"だった。
(今も持っている…)

愚かな男だ、と自分ながらに思う。
組織の"縮図"を嫌い、他者を小馬鹿にしていた俺に上がる"リング"などなくなるのは当たり前だった。

そして、誰も助けてはくれなかった。
それまで散々愚痴とワガママを吐いていた営業の方々は口を閉じた貝のように押し黙り、俺の解雇を見送った。

頭に来たが、仕方ないとも思えた。
俺の仕事など会社の利益に繋がっているかと聞かれたら、俺自身、正直疑問があった。
会社が厳しのに、無駄な"人件費"を払う必要は無い。

こうして俺は無職に戻った。

何のビジョンも抱けない無職になった。

悲しすぎて涙も出なかった。散々パワハラしてきた部長の家に火を付けて🔥やろうか、と思ったが、馬鹿馬鹿しいので止めた。

からしたら、ここが俺の人生の"折り返し地点"(28才)だったのかも?

この後、公的機関に勤めたり、脳腫瘍になったり、言葉を失ったりとまだまだ苦闘は続く。

そんな中で考えているのが、『この生きにくい社会とは何なのか?』という事だ。
俺は別にワガママを言ったり、必要以上の利益を要求しているわけではない。
ただ、誰かに左右される生き方がどうしても嫌なのだ。

他人は何故か俺に隷属を要求する。
しかし、人間は自由だ。どこで何をしようと、何を言おうと自由だろう。
何故、俺の自由を認めない?
社会とは、横暴で、高圧的で、狡猾だ。

しかし、いくら俺が自由を叫ぼうと、社会は俺の要求通りにはならない。
社会が俺以外の人間の"集合体"であるなら、思い通りにならないのは当たり前だ。

だって、人間は自由だからだ。

俺が何を思おうが、言おうとも、関係ないのだ。

どうすれば、俺が"生きやすい社会"になるのか?

……一生、なるまい。

「社会とは何か?」の答えは今も分からない。
だが、一つ理解しているのは、社会は他人も自分も思い通りになる事が無いという事だ。

そんなの当たり前だ?

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いやいや。
それが分かるまで俺は10年以上かかった。

かかっり過ぎ?

それは俺の"自由"だ!
文句あるか?(笑)