鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学50 Psychology relative range(心理的相対的範囲)

以前、長州力のインタビュー記事を原文に近いものを読んで👀驚いた事をある。 (kaminogeだったかな?)

イメージ 1


とにかく異常ほど形容詞と"()"の注釈が多い。
いろんな物事を省略し、"あれ"や"それ"で話すのだ。

91年に天竜と一騎討ちした試合後のインタビューなど注釈だらけであり、

イメージ 2


プロレス記者の方はよくこの分かりづらいコメントを訳せたな、と関心した。
それだけ、長州のコメントには"あれこれ"が多い。

だが、社会に出てみると『あれこれ』と形容詞で話す人間は多い。
以前いた出版社など、"あれこれ"だらけだった。

『この前のあれ、どうなった?』
『あの人ってあれ?』
『あれだよ、あれ』
『それはあれ?』

何で人は『あれ』『それ』『これ』と"形容詞"で話すのか?

一つは、単なる"脳の老化"がある。
人の記憶力には限界がある。
生まれてから人は見たもの、聞いた言葉を全て記憶する。
丁度パソコンやスマホのメモリーのように"上限"があるという。

年齢が進むに連れ、そのメモリーは詰まってくるのだ。
だから、1度記憶した"物事"を記憶の奥に"置いて"しまい、物事の姿やそれ自体の記憶はあるものの、「名前が思い出せない」という事が起こるのだ。
"物忘れ"という奴だ。
(俺も最近よくあるなぁ…)

二つ目は、『心理的相対的範囲の認識』(Psychology relative range)だ。

相対的範囲とは、一つの物事に乗じて起こる、比例、反比例を含めた変化が起こり得る"範囲"の事。
心理的』というのは、つまり、一つの物事に対し、同じ具体的なイメージを浮かべる人間らの事や、それに即した動きをする事だ。

具体的に言えば、

自分が「あれ」と言えば、"あれ"であり、「それ」と言えば、"それ"なのである。
それ以外はあり得ないのだ。
"あれそれ"を理解している事が前提だ。
何の説明も無く、『あれ』を理解し、自分の思った通りに動く。
そんな人間のみを"仲間"と認める。

自分の"認識"に"相対的"に対応する"範囲"にいる人間のみを相手にするのだ。

つまり、長州力は普段から「あれ」と言えば、それが何か通じる人間としか付き合っていないに違いない。

イメージ 3


自分を『理解してくれる』範囲の人間(おそらく部下などの"配下")としか繋がりを持てない"腰抜け"である。

長州は何とも情けなく、小さな枠の中でしか動けない男なのではないか?


だが、何も"そういう長州的な『あれそれ』と言う人間がダメだから排除しよう"、という事では無い。

イメージ 4


社会に出てみると、こんな奴は山ほどいる。
『こんなバカばかりだ』、とも言える。

だから、"こうした"奴を『どのように対応するのか?』という事が重要だ。

俺のいた出版社の連中は「あれそれ」を連発し、しかもそれを瞬時に理解しないとよくキレた。

「鈴木君、"あれ"ってどうなった?」

この問いに対し、

「"あれ"って何すか?」

などと聞き返してはいけない。"彼ら"からしたら、自分の"あれ"が理解できないなど考えられないのだ。

「あれ」と言えば、"あれ"なのだ。
理解しておかないとダメであり、説明するなど邪魔臭くて、"面倒くさい"事を自分がするなど考えられない。

イメージ 5


聞いたら、"バカにされている"とさえ思い込んでしまう。
(実際、そうなんだけどね)

だから、"あれ"が何の事を指しているのか、適当に答えながら考えておく事が肝要だ。
理解しているふりでも構わないはずだ。
自分の"あれ"が通じない事よりはマシだからだ。


そして、自分自身が"そんな"バカになっていないか、を常に肝に命じておけ。

"あれそれ"で話す事は、実に便利だ。
いちいち説明しなくても良いからだ。
また、「それ」と言えば、全てが理解してくれる"仲間"といれば、物事は非常に都合が良い。

ならば、俺のいた出版社での"あれそれ"は会社という組織の為には非常に"有益"な事である。
上司から「あれ」といわれ、瞬時に理解し、その対応が出来る人間は重宝がられるのだ。

しかし、それを勘違いし、自分の仲間(部下)に連発する奴は愚かである。

心理的相対的範囲を良いことに『あれそれ』を連発するのは、今話題の"パワハラ"だ。

イメージ 6


なぜなら、"あれそれ"がわからなくても仕事は出来るし(戸惑いがあっても…)、"あれそれ"が何かを説明しなけれび
ばならない義務は"あれそれ"を言う側にあるからだ。

他人を自分の意図通りに動かしたがる人間は、この煩わしさを嫌っては、何も思い通りにはならない。


また、心理的相対的範囲を見誤り、『あれそれ』が通じない人間に怒るのは滑稽である。

人間は錯覚する。

相対的範囲内で、自分の意志が通じる人間としかいない人間は、自分の『あれ』で、皆が必ず理解し、必ずその通りに動いてくれる、と錯覚する。

そんなわけがないのだ。

なぜなら、人は自由だ。誰かの意見や考えに左右されない。自分の考えに基づいて行動している。
"あれそれ"が何であるのか、理解しておかなくても大丈夫だ。

だから、他人に"あれそれ"は通じない。
アンタの『それ』なんて通じるのは、限られた範囲でしかないのだ。

なのに、"あれ"が分からないからキレたりするのは、恥ずかしい。
駄々をゴネる子供のようだ。

しかし、そんな"ワガママ"は必ず破綻する。

思い知れ!

イメージ 7