鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学75 キレましたか?

思い込みの(自己否定の)強い人の怒る心理パターンは、こうだ。

 惻分は間違っていない。正しい』と思っている。

1、自分の考えること、行動は"正しい"』と思う。

2、しかし、他人は自分の言動に従わない。

3、"正しく"、"間違っていない"自分に従わないのは、つまり『アナタは間違っている』と"否定してくる"行為だ。
そんな事があるわけがない!

4、何故なら、"正しい"から。
自分が何故、否定されなければならないのか?
間違っているのは、常に自分以外の他人だ。

5、自分を"攻撃"してくる他人が許せない。頭に来る。

だから、怒る。

……という精神行程を経ている。
他人が自分の言うことを聞いてくれなかったり、自分とは違う考えをしていると、怒る。

それが、自分への否定に思え、『自分は間違っていない!』と思っているから、それを他人からの"否定"と捉え、自分への攻撃とさえ思ってしまう。

何度も書いているが、
人間は自由だ。

何を考えようと、信じようと、話そうと、行動しようと、自由だ。

それを規制することは出来ない。

だが、自分が自由ならば、また他人も自由だ。
アナタの意見と違う事を考えても、行動しても、自由だ。
もっと言えば、それが別にアナタへの否定にはならない。

だが、『自分は正しい』と信じているのなら、そんな正しい自分に従わない事が、自分の自由を"否定"し、自分自身への攻撃に思えてしまう。

誰もアナタを攻撃していない。
自分で自分を傷付けるような行為なのだが、それよりも"自己否定された』という"思い込み"が人を動かしてしまうのだ。

『自分は正しい』という思い込みは、実に厄介だ。

『自分があれこれ考えること、する事の自由は認めて欲しいが、他人のそれは認めたくない』という考えがある限り、他人は自分を否定してくる存在であり、決して相容れない存在なのだ。

何故なら、自分は"正しい"からだ。

ポイントはそれが、現代社会では主張しにくい、という事だ。

思想行動の仕事は法律(憲法)で保障されている。
「他人の自由など認めない! …だが、俺の自由は認めろ!」などと言う"社会人"はかなり問題がある。

だから、言えない。
心の内では、『ワタシは正しい。間違っていない!』と思っていても、それを他人に押し付けられない。


俺はいろんな職場で、様々な人間を見てきたが、どこにでも思い込む人間がいた。
俺自身もそうだ、とも言える。

しかし、思い込みとは違っていると、急に怒り出す奴がいた。

"例の"知り合いのように、『アイツは俺を嫌っている!』なんて怒るのは、まだ分かる。
だが、「実は俺、釣り好きなんだよね」、「実はアイツと仲良いんだ」くらいでブチキレる人間がいた。

他人が自分の"思い込んだ"ような人間でないと怒り出すのだ。

何故か?
全く意味が分からなかった。

何故なら、他人は自由であり、自分の思い込み通りにならなくて当然だからだ。

それの何処が悪い?

……悪いのだ。他人の自由は、自分への『自由の否定』であり、攻撃だからだ。

この"図式"からすれば、他人は自分の思い込み通りでなければ、ダメだ。
自分以外の他人は、自分の思い込み通りであれば、問題が無く、幸福であり、一番良いのだ。

究極の"おせっかい"と言える。

プロレスはショー👯である。
しかも、『演技無し、真剣勝負である』と"虚偽"をしているショーである。

海外(WWE)では、プロレスはショーと認知され、観客は"エキシビション・マッチ"としてプロレスを楽しんでいる。

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何故、日本では"オープン"にされていないのか?
あくまで『プロレスは真剣勝負である』というスタンスを取っている。
(元関係者の暴露は結構あったが…)

だが、あの闘いを観て、あれ(プロレス)が真剣勝負だ、と思い込む人間がいるか?
(たまにいるけど…)

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明らかに"ショー"なのに、おそらく"筋書き"のある"ヤラセ"なのに、
決してそれを披露しない。
『真剣勝負だ!』というスタンスから出てこない。

まるで手品師が、タネのバレバレのマジックを見せるようなものではないか?
何故、プロレス(日本の)は"真実"をオープンにしないのか?

それは、『プロレスとは闘いである』という前提があるからだ。
二人(ないし、数人)が、リングの上で技を競い、相手を叩きのめして勝つ。

それが闘いだ。
手品師が最初から種明かしするマジックが面白いか?

そう、プロレスの本質は『それを観て、興奮するか、否か』である。選手の肉体的な優劣は二の次なのだ。

それには、『この闘いは真剣勝負である』と思わないと楽しめない。
思い込まないと、興奮(ヒート)は手にはいらない。

「そんなの嘘じゃねーか。八百長だ!」というのならば、別に見なければ良い。

完全に真剣勝負なMMA(総合格闘技)を観たら良い。

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思い込む事は、プロレスを観る上でとても重要だ。
レスラーの出す技の一つ一つを、『これって演技でしょ?』と観たら、全く楽しめない。

プロレスの"真実"を知っている俺でも、レスラーの繰り出す技は"真剣"だと思っている。

『プロレスに"思い込み"をしない』などと言え奴は、何の為にもプロレスを観ているか、理解し難い。

これは、自分の思い込み通りにならない、他人に怒る連中と変わらない。

だが、その"理解できない"人間でさえ、プロレスを観ても良いし、思い込まなくても良い。
自由だからだ。

だが、『プロレスは全て八百長』などと思いながらプロレスを観ても楽しいか?

新しい見方、と言えなくもないが、それは既存のプロレスファンである、自分への否定に思える。

他人の"自由"にキレるのは、それが自分のプロレスを否定されているかのように思えるからだ。

その一方でプロレスの"ショー的な"部分は否定出来ない。

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だって、面白いかからだ。
そして、それをどう捉えて、どう感じようと、自由だ。

プロレスには、そうした矛盾がある。
だから、プロレスを観ていると、"思い込み通りにならなくて"怒る人間の気持ちか少し理解できる。

プロレスは八百長でも、ショーでも、"真剣勝負である"と思い込まないと、興奮しない。

これが真実である(?)以上、これ例外の見方は認められない。
認められない、というのか、"有り得ない"
有り得ないから、プロレス自体を否定する事は、自分やプロレスに対する反抗や侮蔑、攻撃、差別に他ならない。

だが、俺は知っている。

別にプロレスは"思い込まなくても"楽しめる。
プロレスの"芝居臭さ"が嫌なら、やはりMMA(総合格闘技)を観たら良いのだ。

俺に従う理由は、ない。
それを俺は知っているし、多くの人間がそうしている。

別にプロレスが真剣勝負だろうと、八百長だろうと、関係がない。
思い込もうが、飲まないだろうが、皆、その生き方に影響はない。(俺はあったがな)

それを知っている。

だから、キレない。キレちゃいないよ(長州)

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他人の言動に、いちいちキレている人間は、自分で自分を攻撃している。
『他人は他人』と思えば、自分が正しかろうと、『自分が正しい』と思うのと同じくらい、『他人も正しい』と思うしかない。

自分を傷付けたくないから、他人を否定してはいけない。

アイツは何にキレているのか?

自分は誰にキレているのか?

それともキレていないのか?

他人の言動が頭に来たとき、そう自問してみよう。

人間は常に自由だ。