例えば、"応援"がある。
甲子園などの高校野球などの試合には、盛大な応援がある。
バッターボックスに立つ打者には多くの声援が飛ぶ。
だが、バッティングはその打者の技術と普段からの練習、努力さらには、運もある。
いくらそのバッターに声援を送ろうとも、ヒットを打てるか、どうかは別問題だ。
応援に意味がない。
しかし、声援を送る事自体は悪い話ではない。
声援で玉を打てる可能性は無いが、『打てる』ような気分になるのは良いことかもしれない。
その気になっても、打てるか、どうかはわからない。
ただ、打てる気になるのは、自由だ。
声援を受け、『俺、打てそうな気がする♪』と思い込むのは自由だ。さらに、それで打てたら良いではないか?
応援にはそういう効果もある。
悪い事ばかりではない。
応援(声援)は"思い込み"である。
"思い込む"から人は今までに無い力が出せる…のかもしれない。
そう信じる事は素晴らしいではないか?
さらに良い例を挙げたら、TVCMなんかがある。
シャンプーのCMなどで、『このシャンプーでアナタの明日が輝き出す』などと宣伝する。
…冷静に考えたら、シャンプーをしたくらいで我々の生活が良くなるはずがない。
だが、シャンプーを変えた事でその人の気分が良くなり、楽しい日々が送れるのなら、それは良い事だ。
人は信じたいものを信じる。
シャンプーをしても、実生活は大して変わらないが、"変わった"ように感じて気分良く生きていけるのなら、それを信じる事は誰も"否定"出来ないではないか?
だから、"応援(声援)"は"セルフマインドコントロール"と言える。
応援を受け、
『俺は打てる!』とか、
シャンプーをして、
『私のこれからはきっと良くなる!』と自分を信じ込ませる。
それが嘘やデマカセでも、そう信じたい人からしたら、"真実"になる。
「何で、あんなバカを信じる?、仲良くする?」
そう思われても、その人からしたら、他人が愚弄する"バカ"がバカに見えないから仕方無い。
俺で言うと、"Uインター"がそれだ。
高田延彦率いるUインターのみが、"真剣勝負のプロレス(?)"であり、格闘技である。
そんな事は全く無いのに、そう信じていた(映像で見たら一目瞭然だったが…)
だから、Uインターに"通常のプロレス臭さ"を感じても、『あれは、生活の為、わざと"プロレスっぽい"試合をしているんだ!』と思い込んでいた。
…そんなバカな話は無い。
だが、そう思い込みたい俺がいる限り、それはそうなのである。
人は信じたいものを信じる。
だから、自分を騙す。
それが、野球の応援やTVCMくらいに留まっているなら構わない。
しかし、世の中にはその"思い込み"を利用したい"詐欺師"がいる。
『私だけを信じていて欲しい』
『私だけが真実を言っている』
そんな言葉に吊られてしまう人がいる。
本当に"信じるに妥当な人間"だと思い込んでしまう。
よく考えて欲しい。
その人は本当に真実を言っているのか?
真実かもしれないが、同時にその人の利益になっていないか?
思い込んでいないか?
その見極めはかなり難しい。
そして、思い込みを否定するのも難しい。
その人からしたら、それは事実だからだ。
ならば、誰も信じない方が良いのかもしれないが、それもまた難しい。
何故なら、社会は必ず人と人の関係性(繋がり)で出来ているからだ。
誰かを信じない限り、思い込まない限り、進まない話もある。
だから、我々にできるのはその人間が思い込みに足る人間が、どうかをよく判別する事だ。
"悪魔"は優しい。「信じろ!」なんていう奴は悪魔かも?
違うかも?
それを判断しないと、社会では生きていけない。
また、アナタが誰かに信じてもらいたいのであるなら、思い込ませようとしてはダメだ。
プロレスが真剣勝負か、八百長か、それは観る人間により変わる。
思い込ませたら、アリなのだが、"真実"が露見した時、その"信者"は信者でいてくれるだろうか?