鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

“水溜まり”の審査員長

昨日、M-1があった。

優勝はマヂカルラブリー


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決勝は割れた。

俺としては“見取り図”の1本目がかなり面白かったが、2本目は少しトーンダウンしたような気もした。

 

こうしたお笑いの“賞レース”を観ていると、思い出す奴がいる。

 

以前勤めていた会社に、こうした芸人のコンテスト番組の翌日に必ずそのコンテスト結果に文句を言い立てる奴がいた。

 

「昨日の結果はおかしい」

「2位のコンビの方が面白かっだろ!」

「審査員は分かっていないな…」

 

人の感性はそれぞれだ。

他人が面白いと言っても、それが必ず自分にも当てはまるとは言えない。

結果に対し、つい批判をしたくなる気持ちは分かる。

 

だが、

 

「絶対おかしい!」

「分かっていない!」

「きっと事務所の力関係であーなったんだ!」

 

もうこうなると、単なる愚痴や、1人よがりにしか聞こえない。

俺は内心(…オマエには関係ないだろが💢…)と思っていた。

 

そんなに気に入らないなら、オマエが審査員長、なれんのか?

下らん奴だ。

 

何であの“バカ”は自分とは関係の無いお笑いコンテストの結果に対し、周囲にあれほど自分の考えを披露して、押し付けて来たのか?

 

 

今になって考え直す…。

 

一つ“承認欲求”ではなかっただろうか?

 

つまり、『俺がこう評価するのだから、みんな“認めて”くれよー』ではないのか?

…その気持ちは少し分からなくはない。

 

誰しも他人から認めてもらいたい。

自分が「こうだろう」と言う事を「俺もそうだ」と言われたい。

お笑いコンテストを見て、自分の意見を吐いて、同意と承認をして欲しかったのだろう。

 

 

2つ目は、『他人が、評価する事自体が気に入らない』というどうしようもない“小さな器”が心の中にあるからでは?

 

そのバカは、決して“お笑い好き”ではない。

それが、お笑いコンテストの後だけ、急に“お笑いフリーク・評論家”になる。

恥ずかしいのだが、本人からしたら『俺は他人とは違う』『あの評価は俺とは違う』と言いたかったのだろう。

 

『この俺の評価が一番で、一番正しい』と言いたいのだろう。大して正しくもないのに…。

 

だから、コイツは自分の気に入った連中や、自分を“認めてくれる”仲間としかツルんでいなかった。

 

俺の嫌いな“小さなグループでしか威張れない”小心者だったのだろう。

他人に認められる“間”でしか自分の意見や評価を言えなかったのでは?

 

まるで、小さな水溜まりで暴れる魚のような人間だ。

他人との関係性の中で、承認してくれる相手を探していたのかも?

お笑いコンテストの結果を批判して、『コイツ(俺)、自分を認めてくれるのか?』と探っていたのか?

 

…今から思うと、結構悲しい奴だったのかも。