鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

派遣録 31 倉庫ピッキング(と派遣仲間)

この頃(第2期)、俺は倉庫でのピッキング作業の日雇いによく派遣された。

家電配送が嫌になったので、俺は積極的に応募した。

それは、“第1期”(正社員昇格前)で派遣された中区の倉庫であった。

場所は同じなのだが、派遣会社が違った。

なので、やることは同じだった、

 

…『よく』などと書いたが、リーマンショックの大不況の影響で、ここの仕事自体は以前より少なく、他の地区で倉庫内作業の募集も少なかった。

 

派遣会社から紹介されると飛び付くように、作業参加を依頼した。

再就職先は、全く見つからなかったから。

2008年はまだ不況の中にあった。

 

俺は他にやる仕事も見つからず、不安と苛立ちを抱えながら、この倉庫で働いていた。

基本日雇いなので、1日契約。明日はどうなるのか、約束はない。

仕事が終わると、すぐに派遣会社に電話を入れた。

 

こんな生活になるとは思っていなかった。

 

この頃の俺は相当不安定な気持ちだった、と思う。

紙切れ一枚で解雇され、職業訓練をうけながらも仕事は見つからず、日雇いで凌ぐ…。

 

俺は既に30。

弟は結婚し、家庭を持っていた。他の同級生も皆、しっかり定職に就き、(おそらく大変なのだろうが)必死に働いていた。

俺も必死だったが、どうにもならず、クビになった求人誌や、俺をコキ使い、見捨てた部長や二課の連中を心から恨んでいた。

 

(…俺が何か悪い事、したか?)と思っていた。

誰かに怒りをぶつけたかった。

 

今から思えば、ではあるが、こうして被害者面(づら)している時点で俺は間違っていたと思う。

どのような場面でも、自分は自分を見捨てずに、また一からやり直すしかない。過去や周りは関係無い。

 

それは頭では分かっていたが、俺はそうは思えず、どす黒い感情を溜め込んでいた。

 

この倉庫作業には、入る日こそ減っていたが、以前にも増していろんな奴等がきていた。

皆、俺のように解雇されたり、仕事(本業)が減って“代わり”に働いていたりした。

 

この頃(2007-08)、県内の大手工場も勤務日などが減らされ、その“穴埋め”として日雇いなどの短期労働をする人が多かった。

そんな奴等と自然に仲良くなっていった。

 

この時によく現場で一緒になった人間を思い出してみる。(全員、仮名かあだ名)

 

ゴリさん…以前からの知り合い。軽作業系の現場によくいた。

 

西田…元トラック運転手。変わり者。

 

菅谷…スガちゃん。変わり者というか、トラブルメーカー?

 

…年下の日雇い。かなり天然。

 

下田…シモちゃん。ゴリさん同様、軽作業系で一緒になった。

 

北山…デブ。自慢話しかしてこない嫌な奴。俺は好きになれなかったが、よく絡んできた。シモちゃんと仲が良かった。

 

マツ…本名は忘れた。デブ(北山)と仲が良かったが、ある時から険悪になった。

 

カトウさん…本名は知らない。ゴリさんなどからそう呼ばれていた。県外の日雇いなどにも行っているらしかった。ヘビースモーカー。

 

派遣現場で顔を合わせる機会が増え、話をするようになっていった。

 

この倉庫作業でもそうで、行くと必ず誰かがいた。北山(デブ)などとは話したくもなかったが、向こうから声をかけてきたりして、顔見知りになった。

よく昼食などを一緒に食べたりした。

 

皆、金がなく、時給の多い現場や仕事、キツい現場や軽い仕事の情報交換をよくしていた。

俺にとって、この倉庫作業(ピッキング)はそうした情報を得る場所でもあった。

 

そして、このピッキング作業自体は、なかなか大変だった。

何故か、現場に投入される日雇いの数か少ないのだ。

作業内容はそれなりにあった記憶がある。

だが、絶対的に人員が少なかった。

いつも(何で?)と思っていた。

おそらく50人ほどで“回る”倉庫なのだが、だいたい30人ほどしか作業員がおらず、ギリギリで“回して”いた印象がある。

 

にも関わらず、日雇いの応募自体が少なく、入れなかった。

で、入ると、明らかに人員不足。どうして派遣(日雇いを含めて)などをもっと大量に入れないのか?

これは何故なのか?

 

ここからは俺の勝手な予測だ。

派遣は、所詮は“調整弁”ということではないか?

 

仕事(ピッキング)があるからと言って、大量に派遣社員を投入し、急に取引などが無くなったりしたら、どうするのか?

日雇い以外の派遣は契約期間があり、そこに賃金が発生する。

それで以前から、1日単位で“切れる”日雇い派遣を現場に入れ始め、大不況に見回れ、それさえも危うくなってきた、もしくは今後の景気動向を考えて、抑制していたのでは、ないか?

 

つまり、完成な“企業の論理”でだった。まさに“労働者というネジ”ある。

組織(会社)の持続が一番であり、働いている人の苦労は二の次。

それ(労働者)を考えてないわけではないが、まずは組織が第一。

俺に解雇通知書をだした製作部の部長と同じ。

『仕方ない』であり、二課の連中の言っていた『…何も言えないよ』である。

 

日本、いや、世の中全体が大変だった。

誰もが必死だった。

俺を解雇した会社も大変だし、そこで働いていた人と残っていたら、それはそれで大変だっただろう。

俺の働く倉庫会社も大変で、そこで働く従業員も大変。そして、俺たち日雇いも大変だ。

 

みんなが喘いでいる。這いつくばって生きている。

だから、組織の持続を一番に考慮するのは、当たり前。

 

そう思わないと、やっていられなかった。(今も?)

そんな風に収まらない怒り💢と不安を抑えて働いていた。