鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

派遣録 21 愚痴部長の思い出

 

久しぶりに、この派遣録を書こうと思った。

 

というのも、今(2023夏)、俺はせっかく就職できた会社を辞めようとしている。

もう限界だ。

今日(8/21)も会社の人間らといろいろ話してきた。

頭に来ることもあるし、俺が反省すべき点も多々ある。

俺の家族の問題もある。

 

少し悩んでいる。

俺は組織(会社)に向かないのか?

本当にそう思う。

これまでたくさんの仕事に就いてきた。

怒られもしたし、誉められもした。ミスもしたが、成功したこともあった。

それなりに組織の中で立ち回れたし、参加できて、己の意思を主張出きると思っていた。

 

だが、違っていたようだ。

今、非常に精神的に追い込まれている。

 

何で、こうなったのか?

考えてみると、地元(浜松)に戻ってきた時に入社した求人誌の編集や、日雇い派遣の日々、その後の某年金機構が俺に影響を与えているのだろうか?

 

思い出しながら、書いていこうと思う。

少しでも悩みが無くなるように…。

 

で、

 

『さらにこの講座の終わる頃(2007年の春先)、俺に“正社員採用”の話が出始めた。

 

なので俺の心は、そちら(求人誌編集での正採用)に傾いて行った』

 

と書いていたので、この2007年頃から話を進めよう。

 

その前に編集部での状況を改めて書いてみる。

…たぶん、長くなる。

 

俺は、2005年の夏前に求人誌の編集部に『営業サポート』としてアルバイト入社した。

 

当初は一人の営業の担当だったが、そのうちに営業課全員の担当になった。

そして、週の内、3日(月火水)は本社で担当求人原稿の校正や管理、残り1日(金)は営業課に戻り、営業サポートをしていた。

(木曜日は休みで、日雇い派遣をしていた…)

 

ちなみに、俺のいた営業課は分社化していて、本社にも俺の働く為の座席があり、そこで働いていた。本社の製作部が仮の所属だったのかな?

 

俺の本来の所属は、分社化した営業課のだった。

ややこしいので、この俺のいた営業課を『(営業)二課』と書いていくことにする。

 

俺は営業二課の皆さんからの指示で動いていた。

とにかく働いた。

働くと誉めてくれた。

以前のブラック企業や日雇いで人間扱いされなかった俺にはそれが嬉しかった。

単純なバカだ。(と今は思う)

 

初めはよそよそしい態度だった部長だったが、俺が下僕のように働くのをみて、次第に原稿の校正やチェックを頼むようになっていった。

 

そして、営業サポートということで、市内や県内の事業所に行くこともあった。

仕事の後には営業さんらが食事や酒に誘ってくれて、比較的楽しい時期だった。

部長の仲も、良好だった。

 

そして、休み(土日)は東京の出版社の『ライター養成講座』に参加していた。

 

…ここまでは書いていたと思う。

 

俺が本社で働くようになると、気になっていた事があった。

 

それは本社には、俺の他に二課の校正担当者がいた。

俺より若い女の子👧だった。

つまり二課の担当は二人体制だった。

 

しかし、この仕事(原稿管理等…)は一人でもできそうだった。

 

なので俺は(…あの子がいるのに、何故俺が雇われた?)と当然思っていた。

 

当時、俺のいた求人誌は相当忙しかった。

原稿の締め切りである月曜火曜は雪崩のように仕事が多く、その女の子一人では処理できない部分があり、俺は(…俺はあくまでも、この子👧のサポートなのかな?)と理解していた。

 

だが、彼女が本当はどんな目で俺を見ていたのか、そして二課の面(特に部長)々や俺に対し、どういう印象を持っていたのか、俺はよく考えるべきだった。

バカな俺は、彼女に軽口を叩いたり、冗談を言ってからかったりしていた。

 

そして彼女はあっさり辞めた…。 

俺が本社に来て、半年くらいしてからだったと思う。

俺がまだ日雇いでピサ🍕や寿司🍣の宅配をしていた頃、彼女は突然辞めた。

 

それで俺への仕事の比重が変わり、俺は木曜日も出勤になった。

木曜日の日雇いは止めた。それでも金の無い俺は、土日に日雇いの仕事を続けた。(東京の講座の無い日に)

 

その担当の女の子が辞めると、二課の営業らの態度が少し変わった、いや、元からそうだったのかもしれない。(…あまり変わらない人もいたが)

 

何か厄介な事があると、よく「どうにかならない?」と頼まれるようになり、俺は営業らの“代弁”として、原稿を作る製作部本社直属の“一課”交渉するようになった。

これはなかなか大変だったが、仕事なので仕方なかった。

 

それよりも俺が嫌だったのは、部長の愚痴の相手だった。

 

木金曜日は二課で、原稿校正をしていた。

それで、よく部長と二人っきりで働いた。

 

その時に必ず部長は、俺に“愚痴”を吐く。

「本社で決まったあの話、何でだよ💢」

「一課の○○さん、何なんだ💢」

「製作の奴は、こっちの苦労を分かってない💢」

と、俺に愚痴り、そして必ず「なあ?」などと俺に同意を求めた。

これに応えないと、部長は途端に機嫌が悪くなる。

間違っても「…さあ」「分かんないっす」などと言ったら、拗ねてネチネチといじける。

 

俺も雇われている身である。多少理解できない事でも「…そうっすね」ぐらいに合わせる事はする。

 

だが、会社の幹部らが決めた事項を俺に「なんで?💢」と詰められても、「知らないですね」としか答えようがない。

この部長は、俺がそう答えると何故か怒り、「鈴木くん、知ってんでしょ?」などと決め付けて、また怒る。知るはずがない。

意味が分からなかった。

 

要するに会社の上層部や一課には直に言えないので、俺に愚痴っていたのである。

 

内心頭に来ていた俺は、愚痴る部長に対し、たまに「そんなムカついてんなら、(幹部らに)直接お話ししたらどうですか?」と言い返したりした。

すると部長は余計に怒り、「そんな事できるわけないだろ💢」とか「向こうは、営業の苦労なんて考えてくれないよ💢」と、何故か、俺が怒られたりした。

 

つまり、俺のような立場の低い人間にしか文句が言えないのだ。

つまり“腰抜け”

 

俺が直接交渉のできない人間を「腰抜けめ!」と小馬鹿にするのは、この部長の姿勢を見てからだ。

立場が上の人間には物が言えず、低い者には散々言う。

小さい…。

気持ちは分かるが、それは腰抜けだろ?

 

何より頭に来たのは、後から俺がそういう愚痴の話をすると、部長は必ず「俺、そんな話、したっけ?」ととぼけるのだ。

まるで、俺の記憶違いのように言ったりした💢

俺はこれを何度も言われた。

部長も笑っていたから、おそらく記憶はあるのだろうが、この都合良い腰抜けっぷりに呆れた。「ああ、ごめんね」くらい言えんのか?💢

 

俺は愚痴る部長の姿を情けなく思いながら、そんな彼の部下である自分を自認していた。

愚痴られるのは仕方ない、とも思っていた。我慢だ。

 

…この時はまだ。

 

これは、他の営業の方にも言えたが、その人たちがいるから、会社があり、俺も働けている。

ある程度のわがままや厄介事、愚痴は受け入れるべきだろう、と思っていた。

 

それによく酒を奢ってもらったりして、世話になっていたのも事実。愚痴くらいなら聞いてもバチは当たらないのかもしれなかった。

 

それに、土日は日雇い派遣や東京(講座)があり、俺は忙しかった。

気にする暇がなかった、というのもある。

 

そして、俺にはまだ社内に気になる“奴等”がいた。

 

(まだ2007年以降の話にはならない…。もう少し書いていく)