鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

派遣録 29 そして、日雇い派遣第2期へ

3ヶ月の職業訓練の後、俺はパソコンの基本的な技術やWord、Excelの資格、さらにはWeb系の資格も取得した。

これらの資格は、今ではもう古くなっているが、履歴書の資格欄に自動車免許以外を書けるのは嬉しかった。多少ハクが着いたかに思えた。

講座では職場訓練があり、俺は販売の仕事をしていた経験から、市内の書店で働いた。

悪い職場ではなかったが、向こうも俺を採用する余裕はなく、俺もそこでは採用される気はなかった。(この店は今は閉店している)

 

こうして無事に講座は終わったが、俺の行方は定まらなかった。無職のままだった。

 

『解雇されない為、すぐに採用される為には、確かな技術を』と思っていたが、パソコンのスキルを少し上げたくらいでは、あまり意味がなかった。

それよりも日本中(世界中?)の不況(リーマンショック)はまだ続いていた。

2008年の夏だった。

 

俺はそこから半年ほど、さまざまな正社員求人に応募したが、全く採用されなかった。

『この度は不採用と…』と書かれた通知書だけが増えていった。

 

この後に脳腫瘍を患い社会復帰後にも、市内(市外も)のあらゆる会社の求人に落ちることになる俺からすると、こんなもんはまだまだ“序の口”だったが、この時は近い未来、まさかそうなるとはこのときは思っていない。

ひたすら、正社員で働ける仕事を探した。

で、落ち続けた。

 

俺は、勤めていたのが、“地方求人誌”というような経営基盤が脆弱な会社だった事に反省した。

(…今度は力のある有名企業で働きたい)と願っていた。

解雇になったのは、自分のせいなのに、俺はまだ会社のせいにしていた。

 

その為、応募先は比較的に有名な地元企業や全国的に知られた会社の支社や事業所だった。

 

そんなところに俺みたいなバカが入社できるれわけがない。

 

そして、無職状態で半年以上も経つと、さすがに両親の態度は厳しくなる。

 

実はこの頃、父親も長年勤めていた会社を定年退職しようとしていた。

そんな中、長男がいつまでも実家に“寄生”して、しかも無職…。 

 

ちなみに俺には弟がいたが、俺が解雇された時に結婚し、家族を持っていた。弟は有名大学を卒業し、誰もが知る有名企業で働いていた(今も…)

兄としては、もう弟に敵わないのは分かっていた。圧倒的な差である。

だが、両親は俺に少しでも弟のように、立派な社会人として働いて欲しいと願っていた。

 

これを書いている今(2023年)、母などがよく俺に「何でアンタは弟と違うんだ!」と怒る理由はこれだ。

俺としては、別に怠けたり楽(らく)して生きたいわけではない。

俺は俺なりに生きている。働いている。

だが、母などは俺が早く身を固め、正社員で働くことを強く望んでいた。

 

しかし、それは不可能だ。

弟と比べられるの仕方ないが、生き方まで合わせるのは違うと思うし、俺は俺の生き方しかできない。

その時の俺には、そんな事を言う権利はなかったが…。

 

今思えば、俺はこのタイミング(2008)で実家を出て、独り立ちするべきだった、と思う。

当時、俺には、交際していた女性がいて、そういう“プレッシャー”があったりした。

俺も結婚を考えなくもなかった。

彼女と同棲とかしておけば良かった、と今は思う。

 

だが、この時の俺は…(まず正社員になる!)とか(…安定した収入を得たら)と心から思っていた。

現在、『結婚しない若者』の理由に『経済的な余裕』があるが、俺もそうだった。

 

今、(…もしあのまま、あの求人誌の会社にいたら?)とは思わないことも無い。

でも、解雇されたらどうしようもない。

あのクソ部長などには腹が立ったままだったが、俺はまずは自分の生活をどうにかしなければ、ならなかった。

 

社員採用が無理でも、もうバイトはもう嫌だった。求人誌編集で、正社員採用を餌に、コキ使われるのに、俺は懲りた。

それに、バイトしていたらすぐに採用されても、なかなか辞められない可能性もある。

それに嫌な現場に入ってしまったら、バイトはすぐに辞められない。

 

それで俺が選んだのは、日雇い派遣の再開だった。

 

基本、1日契約の日雇い派遣はバイトと違い、すぐに辞められる。

嫌な現場なら、その日でオサラバできる。

 

俺は日雇い派遣をしながら、正社員採用を狙い、求職活動をする事にした。

これに家族は呆れて、友人らは笑った。恋人だけは応援してくれた…。