鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学113 怠け者の死生観



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プロレスラーの木村花さんの事件が未だに俺の中で留まり続けている。

彼女の話題をテレビで見ると、胸が痛い…。

 

何故、彼女は自ら死を選んだのか?

 

とあるノンフィクションライターが言っていたが、「あなたは何で、死を選んだのですか?」という問いは、全ての自殺者からは「…では、何であなたは生きているのですか?」という問いかけになる。

 

何で、俺は生きているのか?

 

それは「生きていたい」からだ。「死にたくない」からだ。

かなり、抽象的にしか言えない💧💧💧

 

彼女の死がそう俺に“問いかけ”ているからだ。

だから、彼女の死の話は、生きる我々にシビアな現実を再認識させる。

 

生きるとは?

死ぬとは、何か?

…死生観、というやつだろうか?

 

俺は生きている。

 

そこに理由はあるのか?

生きる理由とは?

 

二度ほど死にかけた(脳腫瘍)俺からしても、その答えを具体的に言えない。

 

ただ分かるのは、俺たちの『生きる』先には、やはり『死』が待っているという事だ。

俺もいつかは死に至る。

逃れられない。

病気で死にかけようが、健康に過ごそうが、貧乏だろうが、金持ちだろうが、必ず死ぬ。避けられない。

 

俺たちにできるのは“その時”まで生きる事しかない。

 

俺は『死ぬ自由など無い』と思っている。

亡くなった花さんには悪いが、やはり“自ら死を選んだ”という事実を俺は激しく否定したい。

 

死んで、どうなる?

何故、生き続けない?

何があろうとも、生きなければならないだろ?

生き続ける必要があっただろ?

 

亡くなった本人からしたら、それこそ“独り善がり”な言葉だと、思うが俺はそう思う。

「それができなかったんだよ!」と言いたいだろう。

 

それでも俺は自ら死を選ぶ人間を認めない。

 

実際、俺の知り合いにも自ら“死を選んだ”ヤツがいる。

生きていて欲しかった。

人生に、人間に、自分に絶望しても、生きていて欲しい。

自分自身に“必要性”を感じて欲しかった。

 

誰かに、何かを言われても、生きていて欲しかった。 

 

 

では俺が、人生を生きる“必要性”があるのか?

 

…それは、やはり分からない。

偉そうに「生きていて欲しかった」などと書いたが、自分が生きている理由ははっきりしない。

 

そんな俺にも、それなりの死生観はある。

 

俺は自分の事を“怠け者”だと思っている。

 

少しでも動けば、「疲れた😖💦」と言い出し、大した事もしてないのに「大変だった💦」と骨休みしようとする、どうしょうもないバカだ、と思っている。

 

俺の親父がまだ生きている。

今年で70才を越える“おじいちゃん”である。

 

父の人生は、俺たち家族を養う為にひたすら働いてきた人生である。

そんな親父は、今、仕事もリタイアして、ほとんど家にいて、日がな1日テレビを観て、夕方になると酒を飲んでは母親と喧嘩している。たまに釣りに行くと、溺れて死にかけたりする(去年)。

 

親父としたら、『これまで必死に生きてきたのだから、“最後”くらい、俺の好きにさせてくれよ』と言うのだろう。

 

その気持ちはよく分かるし、そうすれば良いとは思う。(…釣りは禁止された)

 

だが、同時に“哀れ”でもある。

40年以上、必死に働き続けた親父が、人生の最後で、テレビ画面と晩酌🏠🍶だけが生き甲斐の日々を送るだけになるのは、哀しく見えた。

 

“仕事人間”である親父から、仕事を取ったらこうなるのだ。

それが哀しい。

間違いないだけに…。

 

必死に働いてきた人間(親父)の最後が、これか?

 

『過大な労働』には、それなりの“成果”が必要だ。

誰にでもが期待する。

今まで頑張ってきたから、『後は楽に生きたい』『“跡を継ぐものよ”(俺?)、頼んだぞ』は、理解できる人生観だ。

 

老後はゆっくり。

自分の好きなように。

休みながら…。

 

だが、それ(老後)を期待する日々は“楽しい”のだろうか?

親父を見ていると、そうは思えないのだ。

 

 

… 家族の為に。

…みんなを幸せに。

…お金を稼いで、豊かな生活を。

 

社会生活をする人からしたら、当然の“目的”だ。

俺も突き詰めたら、そうなりたい。

そうなるように今も生きている。

 

だから、一生、働いていたいと思っている。

 

一生、稼いでいたい。

一生、幸せを求めたい。 

一生、誰か(自分?)の為に働きたい。

 

この命が尽きるその日まで、“生きる”行動(仕事)をとっていたい。

『俺ってもう十分だろ?』と思ったら、そこで人間は動かなくなる。

何故なら、そこまで死ぬ気で働いてきたからだ。

そう思ってしまうのが、人間た。(親父?)

 

俺は少し違う。

“怠け者”の俺は、休みたくなっても、しんどくなってきても、「今まで怠けてきたからなぁ」『十分だな』と思えないと、思う。

 

『まだ何か起こるのでは?』

『まだ、稼かせげるんじゃ?』

『今まで“サボって”分を取り戻すか?』

 

そう思って、“動き続ける”だろう。

自分の“判断”で、“動く”だろう。

それが、俺らしいかもしれない。

 

たまに休みたくなっても、『もう十分、怠けただろ、俺?』と思えば、また働ける?

 

死ぬまで、“働く”。

 

それが、俺の『生きる理由』かもしれない。