プロレスラーの木村花さんの事件が未だに俺の中で留まり続けている。
彼女の話題をテレビで見ると、胸が痛い…。
何故、彼女は自ら死を選んだのか?
とあるノンフィクションライターが言っていたが、「あなたは何で、死を選んだのですか?」という問いは、全ての自殺者からは「…では、何であなたは生きているのですか?」という問いかけになる。
何で、俺は生きているのか?
それは「生きていたい」からだ。「死にたくない」からだ。
かなり、抽象的にしか言えない💧💧💧
彼女の死がそう俺に“問いかけ”ているからだ。
だから、彼女の死の話は、生きる我々にシビアな現実を再認識させる。
生きるとは?
死ぬとは、何か?
…死生観、というやつだろうか?
俺は生きている。
そこに理由はあるのか?
生きる理由とは?
二度ほど死にかけた(脳腫瘍)俺からしても、その答えを具体的に言えない。
ただ分かるのは、俺たちの『生きる』先には、やはり『死』が待っているという事だ。
俺もいつかは死に至る。
逃れられない。
病気で死にかけようが、健康に過ごそうが、貧乏だろうが、金持ちだろうが、必ず死ぬ。避けられない。
俺たちにできるのは“その時”まで生きる事しかない。
俺は『死ぬ自由など無い』と思っている。
亡くなった花さんには悪いが、やはり“自ら死を選んだ”という事実を俺は激しく否定したい。
死んで、どうなる?
何故、生き続けない?
何があろうとも、生きなければならないだろ?
生き続ける必要があっただろ?
亡くなった本人からしたら、それこそ“独り善がり”な言葉だと、思うが俺はそう思う。
「それができなかったんだよ!」と言いたいだろう。
それでも俺は自ら死を選ぶ人間を認めない。
実際、俺の知り合いにも自ら“死を選んだ”ヤツがいる。
生きていて欲しかった。
人生に、人間に、自分に絶望しても、生きていて欲しい。
自分自身に“必要性”を感じて欲しかった。
誰かに、何かを言われても、生きていて欲しかった。
では俺が、人生を生きる“必要性”があるのか?
…それは、やはり分からない。
偉そうに「生きていて欲しかった」などと書いたが、自分が生きている理由ははっきりしない。
そんな俺にも、それなりの死生観はある。
俺は自分の事を“怠け者”だと思っている。
少しでも動けば、「疲れた😖💦」と言い出し、大した事もしてないのに「大変だった💦」と骨休みしようとする、どうしょうもないバカだ、と思っている。
俺の親父がまだ生きている。
今年で70才を越える“おじいちゃん”である。
父の人生は、俺たち家族を養う為にひたすら働いてきた人生である。
そんな親父は、今、仕事もリタイアして、ほとんど家にいて、日がな1日テレビを観て、夕方になると酒を飲んでは母親と喧嘩している。たまに釣りに行くと、溺れて死にかけたりする(去年)。
親父としたら、『これまで必死に生きてきたのだから、“最後”くらい、俺の好きにさせてくれよ』と言うのだろう。
その気持ちはよく分かるし、そうすれば良いとは思う。(…釣りは禁止された)
だが、同時に“哀れ”でもある。
40年以上、必死に働き続けた親父が、人生の最後で、テレビ画面と晩酌🏠🍶だけが生き甲斐の日々を送るだけになるのは、哀しく見えた。
“仕事人間”である親父から、仕事を取ったらこうなるのだ。
それが哀しい。
間違いないだけに…。
必死に働いてきた人間(親父)の最後が、これか?
『過大な労働』には、それなりの“成果”が必要だ。
誰にでもが期待する。
今まで頑張ってきたから、『後は楽に生きたい』『“跡を継ぐものよ”(俺?)、頼んだぞ』は、理解できる人生観だ。
老後はゆっくり。
自分の好きなように。
休みながら…。
だが、それ(老後)を期待する日々は“楽しい”のだろうか?
親父を見ていると、そうは思えないのだ。
… 家族の為に。
…みんなを幸せに。
…お金を稼いで、豊かな生活を。
社会生活をする人からしたら、当然の“目的”だ。
俺も突き詰めたら、そうなりたい。
そうなるように今も生きている。
だから、一生、働いていたいと思っている。
一生、稼いでいたい。
一生、幸せを求めたい。
一生、誰か(自分?)の為に働きたい。
この命が尽きるその日まで、“生きる”行動(仕事)をとっていたい。
『俺ってもう十分だろ?』と思ったら、そこで人間は動かなくなる。
何故なら、そこまで死ぬ気で働いてきたからだ。
そう思ってしまうのが、人間た。(親父?)
俺は少し違う。
“怠け者”の俺は、休みたくなっても、しんどくなってきても、「今まで怠けてきたからなぁ」と『十分だな』と思えないと、思う。
『まだ何か起こるのでは?』
『まだ、稼かせげるんじゃ?』
『今まで“サボって”分を取り戻すか?』
そう思って、“動き続ける”だろう。
自分の“判断”で、“動く”だろう。
それが、俺らしいかもしれない。
たまに休みたくなっても、『もう十分、怠けただろ、俺?』と思えば、また働ける?
死ぬまで、“働く”。
それが、俺の『生きる理由』かもしれない。