古代中国の思想家、荀子は『人は悪』として、それゆえ、『法による規制』を訴えた。
人間の本性は「悪」であり、利己的差を認め、君子はその本性を後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。
人間の本質は“悪”である。
そう定義するから、人は人を正そうとする。
法律、規則、規範(礼)で、人は悪を抑え、生命の安全を確保し、安定を得て、困窮から抜け出す事が出来る。
『礼は宇宙の理(ことわり)である』
俺が嫌いな考え方だ。
礼が宇宙の理がどうかはともかく、そういう風に規定しないと、礼(規範)は“裏打ち”できないのだ。
何故なら、人間は自由だ。
何をしようが、何を信じようが、何を欲しがろうが、その人の勝手だ。
自由だからだ。
だが、自由だからといって、他人を傷付けたり、損害を与えたりするのは違う。
違うから、他人との関係を鑑みて、自身の自由を求める。
それが人間社会の常ではないのか?
だから、礼(規範・モラル)がある。
自由とは悪だ。
それを“宇宙の理”などと言うのが、馬鹿馬鹿しい。
自身の自由を押し通したい“詭弁”だ。
他人を自分に従わせたい強要だ。俺は礼儀を主張する馬鹿を心の底から軽蔑する。
自由を欲しがる奴は、他人の自由を認めない。
自分が自由でいたいからだ。
バーカ!
人からすると、自分以外の自由(勝手)は悪でしかない。
ならば、交渉しかないだろ?
他人と関わる事で、“妥協点”を見つけろ。
それが、できない馬鹿が『モラル』とか『宇宙』とか『わきまえる』とか言い出す。
腰抜けだ。
そういう風にしか、他人と関われない臆病者だ。
臆病者(悪)よ、さらば👋👋👋