市川猿之助被告の裁判。
俺は“自らを排除する”人間を認めない。
病気(脳腫瘍)で死にかけた事のある俺だから、命を、それも自分のそれを身勝手に扱う“バカ”が大嫌いだ。
市川猿之助被告の裁判で“排除”の理由を 「週刊誌に自らのハラスメントが載るので」と述べた。
何を持ってして、“ハラスメント”か?、という問題はあるが、他人を攻撃し、“排除”したがる人間はやがては、自分を“排除”する、と俺は思う。
何故なら、『自分は正しい』と思っているからだ。
自分の正しさを他人に“強要”する。
それはよくある事だ。俺もそうだ。
だが、一旦その“強要”が非難され出すと、大きなショックを受ける。
何故なら、『自分は正しい』と思い込んでいるからだ。
そんな自分自身を否定されだすと、途端に自分を追い込み出す。
“正しさ”など、すぐに変わるからだ。
歌舞伎界という“小さなグループ内”で正しさを主張していた猿之助被告は恥を知るべきだ。
そうしたバカを、これまで山ほど見て来た。
猿之助被告もそうではなかったのか?
本人は「歌舞伎の為」とか「良い演技の為」と思っていたり、「これが俺だ」と思っていた行為が、“ハラスメント”と“断崖”され、途端に自身の“在り方”を失い、一気に『…ならば、“自身を排除”しよう』と思ってしまったのではないか?
俺から言わせてもらえば、そんな事をしても“新しい世界”などにはいけない。
明らかに間違っている。
他人を排除しておいて、“風向き”が変われば、次はさを“排除”し出す。
恥を知るべきだ。
自分が嫌なら、生きて後悔するべきだ。
前の工場で、俺に「あの人(上司)、すぐパワハラしてくるからなー」と愚痴っていた奴が、俺と揉めたら、“その上司”に俺のことを“訴えた”。
俺は内心、驚いて苦笑した。
その上司のパワハラを嫌がりながら、風向きが変わると、「○○さ~ん」とすがり付く。
コイツの頭の中で、どう“整合性”が取れているのか?
恥ずかしくないのか?
そうして他人(俺)を排除したがっていた“アイツ”は、きっとこの猿之助被告のように、やがては“自らを排除”したがるだろう。
哀れな奴だ。
猿之助被告の役者としての実力は確かなもの、と素人の俺でも思う。(“最初はパー”、面白かったな)
自分を“消す”くらいなら、
またあの演技が見たい、と思う。
それがこの人の贖罪ではないのか?
“排除”で逃げるな。
居続けて、恥をかいているべきだ。