『他からの評価は聞くに値しない』と書いたが、少し思う事がある。
矛盾した事を書く。
他人の評価は、やはり“他人の評価”である。
不登校の甥っ子のようにいちいち気にしてもどうにもならない。
だが、その判明、人はその“他人の評価”で評価される。
世の中の人は、自分自身に様々な評価をする。
俺からしたら、(こんないい加減なヤツが何で認められる?)と思えた人間が、上司になっていたりした。
人の“見方”は様々だ。
間違ってはいない。“多数決”に近いと思う。“賛否”の多さで評価が決まる。
どんなに否定しても、賛美が多ければ、それはそういう評価になる。
『聞くに値しない』と言ってもそれで給料が決まったり、組織の中で評価されるのならば、それは『聞くに値する』のではないか?
過去にブラック企業や地元求人誌編集、某年金事務所などを渡り歩いてきて、病気の影響から口が不自由という“評価”をされてきた俺からすると、やはり『人の評価は聞くに値しない』と思える。
それは気にしても仕方ない、からである。
キリがないからだ。
無数にいる“他人”からの評価を、常に“good😃”にしていられる人間などいない。
多数の評価があるのだから、自分に否定的な意見も存在する。
ましてや俺など否定だらけだ。それは分かっている。
だからといって、気にしすぎるのもどうか?
組織は、他人は、常に自分を評価する。
職場で、面接で、履歴書で、一目見て、評価する。
他人と生きる社会では仕方ない事だ、と思う。
非常に矛盾しているが、『他人の評価など聞くに値しない』が『他人は評価を評価する』のである。
プラス(賛美)は賛美として人々に広まり、マイナス(否定)は否定として広まる。
そして、それが他人からの評価になる。
今日、ハロワに行ってきた。
また、“あの会社”に応募してきた。
先日、応募して、書類選考で落選したのだが、また求人が出ていたのを見つけていた。
「一回、落ちているだろ」?
まだ、やってやるよ!
挑戦をやめた時に、人は老いていく。
前回の書類選考落選がどうにも納得いかなかった。
『お前なんて、ダメに決まってんだよ💢』という“評価”なのだろうが、構わない。気にしない。ダメならそれで良い。
また挑戦してやる!💢💢💢
やれんのか、おいっ!💢
こっちは職が無くて困っているんだ。やるだけやってやる。
他人の評価は、やはり、それが俺の評価だ。間違ってはいない。
だが、気にしても仕方ない。
笑うなら、笑えば良い。
俺は俺のやりたい事を、行きたい“道”を行く。
これで今の応募状況は…、
ネットワーク整備(バイト)⇒近々面接。
織物工場(正社員)⇒書類選考。
“とある会社”⇒再び書類選考。
そして、まだ不安だなあ。