俺は、孤独の話をよく考えたりする。
俺が孤独だからか?
先日、また“トー横”で、
ホストに600万円💴の支払いさせる、
この悪いホストが、トー横の若い女の子を誘い、多額の“売掛金”を作らせ、
払えないと、海外売春までさせていた話題を観た。
何で、若い女の子がこんな“詐欺”に引っ掛かるのか?
しかも、身体まで売るなんて…。
そこに孤独がある。
誰とも繋がれない若者が、詐欺師(ホスト)を居場所だと思ってしまう。
実際そうなのだろう。
居場所が欲しい。
その気持ちはものすご分かる。自分が理解され、行動できて、話せる。楽しく“空間”が欲しい。
それが居場所だ。
この若い女の子らは、このホストがそうだったのだろう。向こうからすれば“金ズル”でしかないのだが
…。
しかし、それでも居場所を失えば、孤独だ。
何故、若い人は孤独に耐えられないのか?
他人との繋がりを欲しがる?
孤独で良いではないか?
だが、『孤独⇔居場所』ではない。
孤独とは“誰とも繋がらない”ではなく“理解されない”、“阻害される”という事ではないか?
俺が、これまで働いてきた現場、今も働く複数の現場で孤独だし、孤独に“なっている人ら”をたくさん見た。
彼ら(俺を含め…)が求めるのが、居場所だ。
自分がよく理解され、一番な場所。楽しいところ。
そこに“居たがる”。
そんなところを“居場所”にしたいのだ。
今日(4/14)、実家に行ってきた。
親父がフラフラしていてまた頭にきた。
そして、引きこもり中の甥っ子のところにまた行ってきた。
散々誘っても、自宅から出なかった。
コイツはいつまで“ここ”にいる気だろうか?
きっと甥っ子も“居場所”が欲しいのだろう。“孤独”になれないのだ。
理解されたい。
自分を分かって欲しい。
そんな居場所を探し続ける気か?
他人を“理解しない周囲”も問題が、そんな居場所を探し続けるのも、問題だ。
そんな居場所などなかなか見つからない。
居場所から出ていかないと、見つからない。
1度、孤独にならないと見つからない。