鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

派遣録⑩ 求人広告社

この頃(2006年~)の俺は、書いているようにアルバイト入社した地元求人誌編集部で働きながら、日雇い派遣で収入を確保し、さらに月に二回ほど東京に行ったりしていた。


入社した求人広告社では編集校正の仕事をしながら、どちらかと言えば営業補助がメインだった。

 

俺がアルバイトとして入社してから、何となく俺を取り巻く“状況”が分かってきた


元々は、営業部のベテラン営業が自身の“補助”として俺を雇った、という事らしかった。

なので、事務の人間には俺の存在自体を快く思わない者もいたようだ。つまり(“あの人”、また勝手に若い人を雇って💢)と思われていたらしい。


では、何故、その営業は俺を雇ったのか。


それは、本人が営業活動中の“対応”を任される為と、営業活動の補助である。


これはその後の俺の社内での働き方に大きく関係してくるが、この頃の俺はただただベテラン営業の“手伝い”に邁進していた。


それはベテラン営業だけでなく、その営業課全体をフォローするようになっていった。

 

なので、編集部(営業課)では一番下っ端。“雑用係”と言って良かった。


営業の社員さんに連れられ、またその“手伝い”で浜松近郊の会社🏢、事務所🖋️、工場🏭️、店🍙などを巡っていた。求人誌を届けたり、簡単な打ち合わせなどをしていた。

なので、俺は今でも市内の会社や企業に少し詳しい。


忙しい営業の代わりに沼津まで打ち合わせなどに出掛けたりしたな。(懐かしい)


実際のところ、働き始めた頃の俺は、いつまでもここ(求人誌)にいる気持ちは薄かった。

他に良さげな働き口があれば、そちらに“乗り換えよう”と不埒な事を考えつつ、同時に、この職場の居心地の良さも感じて、少しだけ悩んでいたりしていた。


求人誌の営業の皆さんはとても俺に優しく、良くしてくれた。

あれこれと頼まれ事をされ、それに応えるのが単純にうれしかった。


当たり前だ。

今から思うと、営業の人間らが俺に妙に優しかったり、良くしてくれたのは、俺がアルバイトという“最下層”な存在だったのもあるが、雑用係として重宝していたからだ、と思う。

営業の連中は何かあると、「鈴木くーん!」と呼び、俺に頼んできて、それに俺は応えた。

「どうにか、ならない?」

よくそんな言葉を言われ、厄介事を頼んできた。

つまり、“コキ使われて”きたのだ。

今なら(20年後)なら、嫌気がさしてくるなのだが、「鈴木くん、ありがとー😃」とか「君がいて良かったよ☺️」などとお礼を言われたりして、うれしかった。

俺はそれに対し、喜んで聞いたし、それに応えていた。


前のブラック会社を離れ、一年弱、日雇い派遣やバイトしかしていなかった俺は、誰かに頼られるのが少し嬉しかったのかもしれない。

 

今の俺は、「どうにかならない?」と言ってくる奴が大嫌いだ💢


その頃の俺の働き方は、日雇い派遣と変わらない。

日雇い派遣は、『欲しい時だけ』必要とされて、働く。

この仕事場でも、それは変わらなかった。  

よく考えたら同じなのだ

ただ、“厄介事”や“面倒事”をふられ(押し付けられ)ても、それをこなしていたし、“頼られれている”と思っていた(勘違い?)


仕事後に仲の良い先輩(営業)に、酒などを奢られたりして嬉しかった。(“次郎”に出入りし出したのはこの頃…)


そして、そんな俺を見つめる男がいた。

“この部署の課長(後に部長)”だ。


このクソ野郎(…と今でも思っている)は、俺が入社当初、俺にあまり関わって来なかった。

“腰抜け”で“ビビり”のこの男は俺を警戒していたのだろう。


そして、俺が他の社員の雑用を積極的にこなすのを見て、(…コイツは“使える”)と思ったのだろう。

そのうち、俺にあれこれと自身の仕事を手伝わせるようになった。


この“課長”はとんでもないクソ野郎だったが、この頃の俺はそれを見抜けず、ヘコヘコと従っていた。

そして、大後悔して、激怒💢したりして、“ゴミのように”捨てられる事になる。

 


また、この頃、俺は自分が“派遣”と登録しているグッ◯ウイルに営業の手伝いで打ち合わせや求人誌を届ける為に出入りして、事務の社員さんと仲良くなったりした。


…そして、日雇い派遣は続けていった。